日記2024年3月⑨

3月27日
後楽園ゆうえんちで並んでいたときに近くのスピーカーから大音量で絢香とコブクロのWINDING ROADを浴び、その少しあとにデパートの中華屋でまたラテンジャズアレンジのWINDING ROADを聞いてしまったため、令和にそんなにやる曲かね、と思ってしまいそれ以来ずっと頭の中で絢香×コブクロがWINDING ROADを歌っている。2007年の歌だから当時私は浪人中か。調べるとこの年は新潟県中越沖地震の年、パレスチナ自治政府がヨルダン川西岸とハマスの実効支配するガザ地区に分裂した年だったようだ。今とのつながりと断絶に目が眩む。2007年は、毎日昼休みに友達と予備校の近くの中華屋で朝ドラの再放送を見ながら火傷するほど熱い中華丼を食べていた。あの頃の私は今の私を知らず、まるで知らない人のようでもあり、あのときの私の記憶は今の私にしかないが私にもろくに思い出せず、思い出した当時の私は今の私の様々な記憶の混ざった私であり、でもだからこそというかその一点において私は過去の私とつながっている。あのときのパレスチナでの出来事が、昨年10月からの惨状につながっている。曖昧なようで強固な歴史のつながりが手の中のスマホの画面に現れる。いつのまにか年度末のどん詰まりで、来週からは勤務先がひとつ増える。

3月28日
朝の天気はいい。東浩紀『ウクライナと新しい戦時下』を読んだ。現代の戦時下を語る難しさを、ウクライナの訪問を通して記述する。市民が戦争グッズを作って売る「消費社会と軍国主義が溶け合った、あるいは「楽しさ」と戦争支援が溶け合った、そんな新しい戦時下」。ロシアの侵攻をナチスドイツの虐殺と重ねることでウクライナの中の被害と加害の事実の歴史が覆い隠される「進行中の戦争を過去の出来事と安易に重ねることの危険性」。そして、平和を語ることについて。「戦争と平和は単純には対立しない。平和時には戦争と平和は対立している。ところがいったん戦争が起こると、平和は戦争に呑み込まれる。生活のすべてが戦争の一部になり、戦争以外の可能性そのものが見えなくなる。だから平和についても語れなくなる。その可能性の剝奪こそが戦争の本質だ。しかし、その困難は、平和についての思考が無意味であることではなく、むしろ、その思考をあらためて哲学的に鍛えなおさねばならないことを意味しているはずだ」と東は言う。東は私たちが素朴に戦争について語るときに見逃している微かな新しさと隠れた大きな地層を指摘する。この「新しい戦時下」はすでに日本を覆い始めていると我々は考えてもよいのだろう。イスラエルによるガザ侵攻に反対する運動がSNSを通じた扇情的な動員による購買ボイコットであったことは戦争支援が「楽しい」消費で為されることと表裏一体で、すでに日常が戦争に包摂されかけ文化が政治に飲み込まれていることを表してはいないか。闘争との関係においてではないかたちで共生が語られなくなったのは東日本大地震以降に顕著だろうか。被害と加害の複雑な関係を語る言葉を失っているのも同様である。東はこのようにウクライナの惨状を参照して我々を語ることが「不謹慎」である可能性に留意しつつしかしそのように語る。このエッセイは短く、いくつかの論点の指摘にとどまっているけれど、平和を語ることの条件を問い直そうという普遍的な視点があり、それが個別の問題へ戻ってくるという信念を持っている。問題提起として丁寧に読むと有意義であると思う。

通勤の人の波に逆らって喫茶店に来た。私以外みなスーツの男性で、しかし咳き込みながらタバコを吸うおじさんからマニュキュアをした若い男性まで色々である。モーニングのセットを食べる人とコーヒーだけ飲んでいく人とがいて9時までは混む。途中で50手前くらいの男性が入ってきて、高齢の店主と話しながらキッチンに入っていった。コーヒーを持ってくる顔を見ると店主とそっくりである。息子さんで間違いない。お店を継いでくれるのかもしれない。最近お手伝いによく入っていた女性と夫婦かもしれない。人を雇う余裕があるとは思えなかったから謎だったが、身内だったようである。店主夫婦は少しずつ引退していくのだろう。何事も変わっていくが、お店は残る。店主は大谷の話をしている。

映画『14歳の栞』の上映が今日までだったので行ってきた。埼玉県の春日部東中学校の2年6組の3学期の50日間を撮ったドキュメンタリー映画である。35人の生徒ひとりひとりを映していく。ひとりひとり違う。ひとりひとりが生きることに全く手を抜かない。自分を全力で生きている。それは彼ら彼女らが何か真理を掴んでいるからではなく、そうせざるを得ない自分自身の切迫があるからである。だからそれをただ見て、聞くことが彼ら彼女らを見つめることになる。人を写すことの美しさが現れる。とはいえ疑問もある。映画の冒頭は生まれたての馬の赤ちゃんが立ち上がり、歩き、走り、群れに混ざる様を映し、子供から大人になる瞬間について問いを発する。様々な動物の顔のショットを続けていき、それが生徒たちの顔につながっていく。つまり人間を群れを作る動物として捉えていて、群れに入ることと大人になることを結びつけている。けれども、映画の中心は中学生の彼ら彼女らひとりひとりであって、動物としての人間や群れというテーマはほぼないと言っていい。たしかに集団の力学は重要な要素であるけれども、その集団というのも学校という制度、年齢で揃えた子供たちの集団であり、それは固有の特徴を備えた特殊な場であり、動物の群れと対比するには複雑な議論が必要だろう。それよりも、映画の中ではそれぞれの子供たちのもっと小さい頃のホームビデオが繋ぎあわされていたし、複数の生徒の話題に小学校の人間関係と中学の人間関係の違いや変化という点が出てきた。また、早く大人になりたいと同時に赤ちゃんに戻りたいということを皆が言う驚きもひとつのハイライトであったと思う。そのような子供時代の中での変化、大人になることへの葛藤といった「14歳」に内在するものを映し出しているのがこの映画の美点なのだから、冒頭部分は蛇足のように感じた。ちなみに馬たちの映像は機材などの技術的な面で学校シーンと違いがあるのか気になった。仮に馬の群れを美しく撮る条件と学校で中学生を撮る条件が同じなのであればなかなかおもしろいように思うので。ともあれ、この映画が映すものはすごい。人を映す、人を描くということについて考える上で何度も見直したくなったが、子供たちのドキュメンタリーであるという性質上DVD化の予定はないらしく、残念であるがそれは正しい。願わくば私も子供たちの手加減なしのもがきを潰さない大人でありたい。

夜、今更ながら市川沙央『ハンチバック』を読んだ。釈華の、健常者のように妊娠し中絶したい、という欲望を顕にすることによって障害者のリプロダクティブ・ライツがすでに健常者の社会の手の中にあることを暴いていて、しかしそれゆえに障害者であることは欲望のレベルで深く実存に刻まれているという複雑なあり方を見せる。紙の本の文化は「健常者優位主義(マチズモ)」であるという叫びや、「弱者男性」を自称する健常者である田中さんと資産家である障害者の釈華の対比など、障害を取り巻く複雑な社会を浮き彫りにする。そのような舞台と人物が作る小説世界がおもしろくなるのは、釈華が語る/語らないの選択を身体に強いられつつコントロールしているからだろう。清廉な振る舞いと健常者の世界への怒り。身体的に語れないし語ることを抑圧されているがゆえに生まれ続ける語るべきことを、その捩れをそのまま露出するように投げつけ、それは再び小説として秘められつつ我々に開かれる。最後のシークエンスは難しいところなのだが、これはこの小説を実際の作者の経験や身体に根差したものとすることを避ける作者の工夫なのではないかと思った。

なんだか今日は色々と読んだり観たりした。夜は少し雨が降り窓の外は風が強く吹く音がする。風呂に入るときに子供が私のお腹をドラムにしてリズムを刻んでいた。左、右、右、右、左、右、右、右、と手で叩き、きちんと四拍子で各小節を作っていた。いつのまにそういうことを覚えるのか。しかしそれにしても私はもう少し痩せないといけない。

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