日記2024年1月②

大学院の学位審査が終わって暇になるかと思いきや、さほど暇ということもなく、やることをやっているとあっという間に過ぎていく。たぶんそれがいい。

映画『ミツバチと私』を観てきた。性別違和を持つ子供が夏休みの一週間を母親の故郷バスク地方で過ごす。トランスジェンダーの子供のアイデンティティという主題の背景にカトリック信仰と洗礼の文化を基礎にした名づけの問題を置き、同時に母、祖母の世代間の文化の差と葛藤もまた描き、その中でバスク地方の伝統的養蜂を営む大叔母という斜めの関係を見せる。主演の子は素晴らしくて、たしかに存在するリアリティがあった。バスク語には男性名詞/女性名詞がないらしい。母親は「性別に関係なく育ってほしい」と言うリベラルな人である一方で、自分の母と同様に父の性的な保守性や不貞を憎みつつ理想化してしまうアンビバレンスを抱える。主人公をそのまま受容する最初の人物は「斜め」の関係にある大叔母で、彼女はバスク地方伝統の養蜂を営み蜂を使った伝統医療を営み、キリスト教信仰と密着した形でのミツバチの土着信仰的な世界も持つ。こちらは母系社会的である。ジェンダーをめぐる社会的処遇やジェンダー・アイデンティティをめぐる葛藤の問題が、この地で信仰の対象になっている聖女ルチアの名の名づけと承認によってある種の調停を見せるのが特徴だった。広義の信仰とその土地の女性コミュニティに支えられる。総じて俳優とその自然な写し方がよく、特に洗礼と隠喩的な関係にある川に入る2つのシーンは美しかった。

読んだ記事。

去年の5月の暑くなりはじめていた頃に私も観に行った公演とトーク。意味が換喩的にズレていきながら同型の論理が反復される。その前提に身体があるのだが、その身体は抽象性を帯びる。意味という共同体的な圧の少ない、論理の形式的な反復を土台にしたコント、笑いが私にはとても楽な空間となった。外島さんのアート作品も同様に論理形式の反復という構造が反復されている。反復という形式それ自体が一種の「強迫」として作品群全体を通じて現れていて、抽象的な次元と現実的な次元が身体という場で接続しているということなのだと思う。

柴崎友香『続きと始まり』を読み始めた。まだ本当に冒頭だけ。車の中、そこから見えるもの、後部座席の人、「私」から見えない人、といったモチーフは初期作品からよく出てくる。柴崎さんの書く車の中ってとてもいいんだよな。

学位審査の発表会まで数ヶ月は子供のことを含めていろいろな負担が妻にかかったから、かなり疲れさせてしまっていた。とりあえず子供の横に寝る係を代わった。四歳児は夜にぐいぐい親の顔や体にめり込んでくるのでその度起こされて結構大変なのである。

自炊の時間も取り戻したい。

主治医と相談してうつ病の薬を少し減らした。これで痩せやすくなると嬉しい。ダイエットもまた再開しなければならない。

今年は古い映画を少しずつ見ることを一つの目標にしているが、書きたいものも読みたいものもあるのでどこまでできるだろうか。

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