日記2024年2月①

大学院の方が色々と終わりつつあって、虚脱感がある。もの悲しくてあんまり日記を書く気にもならない。

大学の医局の集まりで大学院修了報告として発表をして、その後懇親会に出た。前からの知り合いの先生と久しぶりに会って、その先生のいる病院でまた働きたいということや、うつ病をやって、ブログやPodcastをやるようになり、やっと元気になってきて、ということを一気にしゃべってしまった。

次の日はST Spotで福留麻里さんの『まとまらない身体と2024/横浜session』を観てきた。誰かに実際に起こった出来事から「小さな振付」を作ってもらって収集し、それを即興的に演じて繋げていく。日によってダンサーが変わり、私の観た最終回は安藤朋子さん、杉本音音さん、たくみちゃんさん。会場には60秒で一周する大きな時計が置かれ、上演が進むとかちゃかちゃという無機的な音が増えていき、謎の機械・オブジェが次々と設置されて振動する。バラバラな律動が満ちる空間で、振付けの余白、再現のズレが浮かび上がりその場のリズムと情動を触発する。反復と差異、想起と生成、過去と現在という対比の相互性が、振付と上演、演者と観客という相互性と重なっている。第一パートは3人のダンサーのリズムの交わらなさ、振付けの個別性が見え喜劇的でおもしろい。3人の個別のリズムが時計の無機的な時間でのみ同じ場に存在しうるということのある意味での風通しのよさを感じた。3人はほとんど接触しないのだが、時折、即興的に同じ振付が異なるダンサーによって連続されることがあり、また、3人の集団的な振付が発生することもあり、その共同性の発生がなんだかユーモラスで気が緩む。第二パートで3人が「小さな振付け」の説明をするのだが、この説明という一見日常的な時間を挟む構成が非常に効いてくる。観客とのやりとりも発生する中で、しかし徐々にその説明もダンサー各自の自動的な語りに収束していき、3人がそれぞれ言葉を発するポリフォニー状態に霧散していく。無音で、第三パートはソロ。私の観た日は安藤さん。第一パートで演じられた振付と重複もありながら、「小さな振付」が反復される。この構成によって、これは反復であり、想起であり、過去のある出来事なのだとより明確に提示され、同時に、振付というのは余白を抱え、差異を生じ、その場で生成し、現在を膨らませるものだとより深く感じることができる。この段階で表現がぐっと抽象的になり、ダンスとしての統一感、連続性、身体の固有性と普遍性に迫る。振付を上演することで、何かが大事に保存され、何かが新しく命を得、そしてそれ自体を様々な条件で反復することで、生活の多様性から生命的な普遍性まで垣間見ることごできる。「小さな振付」の一つ一つに演劇やダンスの持つ力がストレートに現れていたと思う。本当に良いものをみることができた。

下のリンクが出演者のインタビュー。何が行われていたのかがよくわかる。

https://stspot.jp/mag/202401-01/

実は、予約で満席になってしまったところを、福留さんに一席工面していただいてみることができた。本当にありがとうございます。みることができて良かった。観終わったあと、今回の公演を教えてくれて席の工面に繋いでいただいた知り合いの方としゃべった。のだけれど、この日は昨日とは変わってうまく話せなくて、なんだかポツポツと断片的に言ったりぼんやりとお話を聞いたりしていた。ペラペラ喋ったりぼんやりとしたり忙しいことである。

狭い意味でのうつ病的な人間は、内面というのがうまく形成できないところがある。表面に密着した裏面というのはあっても、空間的な内面、クローゼットが私秘的な部屋として閉じられていないというか、扉が開けっぱなし、だって元々何も入っていないのだし、とそもそも論の水準で貫いてしまっている。開けっぱなしのあけすけな空間の荒涼とした広がりが、もの悲しい。開け放たれた扉の表面と裏面を一日一日で交代している。

思えば時間論と空間論を交互にしている。反復、想起という時間的な契機によって、何か、情動を喚起し、生成し、現在という時間に抱えることによって、ミニマルなプライバシーを閉じ込めることができるのかもしれない。

鷲田清一『「待つ」ということ』を読んだ。待つというのは何かを期待する、希う、祈るという「抱く」行為と忘れるという「消す」行為の振幅の中にあり、その極限に待つことそのものを消した希望という不可能な「待つ」があり、そのギリギリまで思考できるかという問いである。全てが潰えて身を丸く縮こめたところから、何かの到来へと身を開くことがどうして可能なのか、不可能な地点から考える。閉じたところから開くという運動がここにもある。

伊藤潤一郎『「誰でもよいあなた」へ:投壜通信』も同様の問いを含む。誰にでも届きうるものでありながら、私が拾った投壜通信は他ならぬ私に宛てられたものだと受け取る。言葉が発酵し、そのようなものになるのを「待つ」。「庭」という外部に開かれた空間を備えた言葉。開かれていながら私とあなたに特異的に届きうる言葉。そういう言葉を書きつけ、海に放つ。そうやって私の小さな空間を作っていくことができるといい。

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