疲れたという愚痴と易疲労性についての覚書

ドトールで観葉植物の横の席に座ったらクモが垂れてきて驚いた。今もそこにいる。先週の月曜日は疲れた日だった。理由はいくつかあって、ひとつめは海外のソフトウェアのライセンスを購入した費用を研究費から落とすための事務処理に手間取ったこと。研究における諸々の手続きの存在はある意味で本質的なもので、その意義はよくわかるのだが私は本当にこれが苦手だ。こんな小さな経費の申請でひいひい言っているのだから研究に向いていないと思う。

ふたつめは英語のプレゼンの内容をチェックしたこと。私のいる研究室では定期的に回ってくるボスへの進捗報告会を英語で行っている。みんなネイティブではないからこなれた英語でなくていいし、今回の私の報告は細かい議論になりそうな箇所がなかったからいい加減でもよかったのだけど、その場でいちから英語で話すほどの力が私にはないので一度は内容を確認しておこうと思った。そうすると細かい言い回しが適切かどうか気になってくるし、想定される質問なんかも思いついてしまってその回答を考えたりもして、案外時間がかかるというか、やろうと思うといくらでも続けられてしまうのでどこかで不安を断ち切っていい加減な切断をしなくてはならない。

いつのまにかクモがどこかに行った。姿が消えると余計に不安になるからそこにぶら下がっていてほしかった。

みっつめは他の院生とのおしゃべり。たまたま男ばかりが集まっていて、今年度は仕事をどれくらいしたとか、来年の大学病院の体制とか、そういう話を元気よくしていた。また近々来る留学生の噂もしていて、来たら飲み屋に連れて行こうとか他愛のないジョークを交えて話していた。「話していた」というような表現を重ねているあたりで察してほしいのだけど、私はこの話に入れていない(と自分では思っている)。私は今仕事をセーブしているから仕事の話題になるとシュンとしてしまうのもあるし、酒が飲めないので飲み屋の話題にもシュンとなってしまうのもある。居心地が悪くて「うふふ」と言いながらPCをパチパチやっていた。あるときもう院を卒業した教官の先輩がふらっとやってきて、私がPCの充電器などを入れているドラえもんのアンキパン型のポーチを見てドラえもんグッズについて色々教えてくれた。それが一番楽しかった。

プレゼンはそこそこに盛り上がりもせずに終わって、すぐ帰りゃあいいものを雑談になんとなく付き合って(自分含めてその場の誰も望んでいないと思うのだがなんかそうしてしまう)、帰路についた。外に出ると前日よりも桜が咲いていたので顔を上げたところで、自分の体がずいぶんと緊張していることに気がついた。あそこで自分がしゃべったときの相手の表情や言いよどみが脳裏に蘇り、失敗だったかなあと思う。英語のプレゼンの内容が一言一句頭の中で再生され、質疑で中学レベルの動詞の過去形を間違えていたことに気づき赤面する。

またクモが垂れてきた。さっきとは別の葉っぱから垂れていてさっきより近い。

私はこうやって出来事の詳細を反芻し、それで余計に疲れる。うーんと思いながら歩くと下を向いたり意味なくスマホを見たりしてしまい、上を見ないから、もうやめて空でも見ようと思って春の夕方の薄紫の空を見るが、気づくと記憶の中でうーんと唸って下を見て歩いていた。

マンションに着くとちょうど妻と子供が帰ってきたところだった。急に日常に戻った気がして、そういえば今日は一度も夕飯の献立について考えていなかったなと思い至った。余っている野菜で焼きそばにしようと思って、ようやく肩の力が抜けてきた。本当に大したことない日だったのだが、疲れた。

私は疲れやすいのだろうか。精神医学にはうつ病の症候として易疲労性というものがあるが、そういえば疲労とは一体何だろう。今ググったら日本疲労学会というものがあり、そこで疲労は「過度の肉体的および精神的活動、または疾病によって生じた独特の不快感と休養への願望を伴う身体の活動能力の減退状態である」と定義されているらしいが、日本疲労学会HPからはその記述にたどり着けなかった。大阪公立大学健康科学イノベーションセンターHPによると、研究上は疲労を「作業能率や作業効率が統計的有意に低下した状態」と定義して測定するらしい。なるほど、疲労を測定可能な個体の行動の変化で定義して、「独特の不快感や休養への願望」などの「主観的」な側面を随伴現象としているわけだ。それでもたとえば右手を打撲したあとに右手を使った作業の効率は下がるだろうがそれを疲労とは言わないだろうことを考えると、やはり「独特の不快感と休養への願望」が伴わないと疲労とは呼ばないから、この「主観的」な側面は必要条件なのだろう。

反対に、作業効率の低下のない「独特な不快感と休養への願望」は疲労と言いうるか。作業効率の低下は測定なしには明らかにできないから、人間の介入の有限性によって限界づけられている。作業効率の低下が見えないけれども「疲れている」と言う人がいるときに、それは課されている作業の負荷が低いだけである可能性がある。また、別の作業であれば作業効率の低下が測定される可能性がある。この問いは無限につづく。したがって、答えとしては、作業効率の低下がないからといって疲労でないとはいえない、ということになるだろう。

これは心理的現象を操作的に定義するときに必ず生じる問題なのだと思う。ここでは疲労の定義の穴を指摘したいわけではない。結局、疲労とは何かと考えるとき私たちは「独特の不快感と休養への願望」、みんながなんとなく共有している「あの感覚」、要するに「疲労感」に大きく依拠している(そもそも「独特の」という文言を定義に入れざるを得なかったのはそういうことだろう)。「疲労」は「疲労感」である。

「疲れた」と言えばわかる、そういう形でしか表現できないがそれでも通じてしまう、そういうものが人間にはある。「痛み」も同じだろう。「お腹が空いた」もそうだと思う。これらの感覚は新生児からあって(本人は言語的に感覚を分節化していないだろうが)、彼らはとりあえず「独特の不快感」を感じて泣く。「おしっこが出そう」という感覚もあるが、これはある程度発達してからはっきりしてくる感じがする。

我々は経験の質について語ることを避けられず、他者の経験の質について「ピンとくる」ことなしに交わることができない。精神科臨床と精神医学はずっとそこを主戦場としてきた。1980年以降の操作的定義の時代にいくら否認しようともそれは変わらない。DSMによる大うつ病の診断基準(=定義)の中に「ほとんど毎日の易疲労性、または気力の減退」とあるが肝心の「疲労」や「気力」の定義がないことが端的な証左になっている。

疲労や痛み、空腹といった感覚はおそらく生体にとってかなりバイタルなものであるから多くの人に共有され、人間全員が同じように感じるのだろうと想像してしまうのだけれど、必ずしもそうではないことが綾屋紗月+熊谷晋一郎『発達障害の当事者研究』を読むとよくわかる。発達障害といわれる人たちの中にはこれらの感覚が曖昧でくっきりとせず、その感覚が相当に強くなって初めて意識に上り、気がついたときには体がヘロヘロになっていることがある。

伝統的な精神医学の症候論は、うつ病の「正気的悲哀」のように高次の精神機能の失調の基底にバイタルな感覚を見出すことでその普遍性を語ってきた面がある。統合失調症の「被注察感」や「実体的意識性」も同様だと思う。でもそれらの感覚は思っていたよりも普遍的じゃないのではないか、ということが発達障害の当事者研究によって突きつけられている。

内海健は「同一性」と「差異」の対比からこの点を考えている(「差異と同一性――ドゥルーズ的変奏によるASDの精神病理」, 『発達障害の精神病理1』, 星和書店, 2018)。綾屋+熊谷が言うようにくっきりとした輪郭をもった感覚が浮上する前には様々な感覚が曖昧に溶け合った状態がある。くっきりとした感覚は私とあなたで同じものとして共有できるもので、「同一性」の原理が成立している。一方でそれ以前の曖昧な状態は、いろいろなものがグラデーションとして切れ目なく並び蠢いている「差異」の世界である。精神医学は人間のバイタルなレベルについてかつてよりも深く想定しなくてはならなくなった。内海健はそのための原理を提出したと言えるのだと思う。

生物学的精神医学は当然生物学的基盤を追求するから、このような精神病理学の方向性は軌を一にしているようにも見えるのだけれど、個人的にはすでに述べたような別の文脈で生じていることだと思う。ただ、さらに広い視野で見てみるとたとえばラカンが象徴界の理論から現実界の理論へと移っていったことも同じ方向を向いていると言え、異なる文脈のものがこのように同じ方向性をもつことはより大きな文脈があるのかもしれない。私には扱いかねる大きさの話し合いだ。

さて「疲労」の質的な面を考えてみるとすると、それはどのような輪郭をもち、他のどのような感覚や感情、思考と関係するかと考えることになる。臨床的にはどのように表出(言葉、声色、声量、表情、身振り、体勢、体動など)されているかを読みとる。「もう疲れた」という呟きからは、俯いて小さくなった姿が浮かび、切羽詰まった緊張感がある。それに加えて忙しなく手や脚を動かしていたらさらに危機を感じる。一方で「疲れちゃうんですよね」ならば少し表情は柔らかく、こちらの目を見てなんなら自虐的な笑いを込めていたりする。バイタルな感覚(最近はこれを情動と呼んだりする)と主体との距離が違う。

前者のことをよくよく考えてみると、疲労そのものよりも焦燥のほうが悪さをしているように思う。焦燥感が疲労感上回り休むことを許さない、というよりも、焦燥感と疲労感がチキンレースをしてエスカレートしているような感じか。後者のような余裕のある状態でも焦燥と疲労の競争関係はあるかもしれないが、この場合はそれらの感覚(情動)に飲み込まれていない。やはり余裕、roomといいたくなるような空間的な距離がある。

この自己の空間性もまた、様々な領域で変奏されている。ダマシオは身体の内部状態に関する予測・フィードバック・調節の回路が組み合わさり、さらに高次のメタな予測・フィードバック・調節の回路が生まれるというような、らせん状の意識の階層構造を想定している。精神病理学では木村敏の「あいだ」の議論が有名である。第三世代認知行動療法でも「脱中心化」といって心的な出来事から距離をとるイメージが語られることがあったと思う。

疲労は、疲労感という身体を休息へ向かわせる情動の一つであり、焦燥感のような行動を増やす情動たちと拮抗/促進関係を作りながら、高次に調節のもとで統合されていくのだろう。流行りの自由エネルギー原理についての浅い知識から考えればこの高次の統合における予測精度と予測誤差の関係から情動に対する余裕の感覚が生じてくるのかもしれないが素人なのであまり深入りはしない。

疲労感はそれだけで疾患の徴候になるわけではない。上述の通りうつ病の診断基準には「易疲労性」と書かれており、この「易」が疾患性を負うている。「健康であれば疲労を感じない程度の負荷で疲労を感じる」と考えていいだろう。そうすると、労作の強度に対する疲労感の閾値があり、うつ病であればその閾値が低いと考えていることになる。易疲労性とはそのような概念だ。つまり、易疲労性は量的な概念である。

しかし実際には労作を量的に測定する尺度は実用化されていないし、おそらく疲労感の閾値は個人差が大きいから、精神科医はそのように量的比較によって判断しているわけではない。朝の歯磨きでヘトヘトになってしまうのはさすがに病的なんではないだろうか、とか、何年も働いてきた人が一週間も外に出られないのは病的なんではないだろうかといったふうに考えている。これは一見量的に語っているようだが、実は「なんかおかしいぞ」とピンとくることによる質的な判断である。精神科臨床はこの「異質性」を見て取ることが欠かせない。

これは精神疾患をディメンジョンで捉えるかカテゴリーで捉えるかの違いとパラレルだ。症状の量的尺度の組み合わせに還元して捉えるのがディメンジョンの考えかたで、一定の症状のまとまりを備えた疾患があり患者はそのどれかにあてはまると考えるのがカテゴリーの考えかたである。精神医学は疾患カテゴリーを洗練することである種の問題にはうまく対応してきたわけだけれど、精神科医療の守備範囲が拡大するにつれうまくいかなくなってきた部分がある。その一例が発達障害といえる。

話がどこに向かっているのか自分でもわからなくなってきた。

私に「易疲労性」について言えば、たしかに疲れやすい感覚はあって、気持ちに反して一日の稼働時間が得られない不全感があり、なんとなくうつ病の影響を感じている。一方でその中でも大学院生をやりながら多少は仕事をして生活しているので、易疲労性はごく軽度か病的な水準でないとすら言えるのかもしれない。でもやっぱり体がいうことをきかないというか労作に対して適度な反応を返してくれないという、何か変なものに邪魔されている感覚があって、その点で自分の中にある「異質性」は否定できないところが大きい。

人間は多元的な存在だということなのだろう。

クモは何回か下がったり上ったりしていた。なんだか気の向くままに考え事をしていたらずいぶん長くなってしまった。要は色々あって疲れたという泣き言なのだが、それこそそれによってまた疲れてきたのでこのへんで筆を置く。


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