見出し画像

『局所性ジストニアを見つめる』 7. アレクサンダーテクニークのセッション

楽器を使ったセッション以外の時間に私がアレクサンダーテクニークとどんなことをしていたのか?である。

私は以前、アレクサンダーテクニークを「無意識を意識化する」メソッドだと説明した。アレクサンダーテクニークは、知っている人間からは「教育」だと説明され、一般的には「補完医療」の一形式ととらえられていることが多い(例えば、私の学校 Alexander Technique Centre, Irelandをgoogle mapで調べるとAlternative Medicineと表示が出る)。私はそのどちらも間違っていないと思っている。その「教育」や「補完医療」のコアにあるのが「無意識の意識化」であり、ここで言う無意識とはそれぞれの個人が持つ「習慣」、とりわけ「自分が気がついていない習慣」に気がつくことである。アレクサンダーテクニークはそのための助けになる。

また、自分の「無意識」に気がつくためのサポートの足がかりとして、「問題が起きている動作」と「筋肉の緊張」に注目すると私は書いた。
「問題が起きている動作」については、ここまでアレクサンダー自身の例や私の実際の経験を記すことで具体的な説明をした。
楽器ありのセッション以外の時間、つまり、私がアレクサンダーテクニークとの生活の大半で行っていたのが、もう1つの要素である「筋肉の緊張」の緩和(リリース)である。
習慣と筋肉の緊張は切っても切り離せない関係にある。

さて、これについての私の経験を書く前にいくつか準備をさせてもらう。

アレクサンダーテクニークの学校 3時間目

1. アレクサンダーテクニークを学ぶ場のことは「レッスン」とか「セッション」と呼ぶことが多い。特に決まりはないと思うので、ここでは「セッション」の方を使う。こちらの方が相互的でダイナミックな気がするからだ。
セッションは、教える人間と学びたい人間の1対1で行われることが多い。ワークショップ形式のような1対多数の場合もある。複数でのセッションも、それぞれの抱えている問題やテクニークの受け取り方が異なることから非常でも学びが大きく、面白い。私のいる学校の1日は、1対1の個人セッションと1体多数の複数人セッションの組み合わせでできている。
どちらの場合も注目していることは同じ「習慣に気がつく」ことである。

2. アレクサンダーテクニークを教える・伝える人間のことを一般に教師(ティーチャー)と呼ぶ。施術者(プラクティショナー)ではなく、教師である。これはなぜかと言えば、誰かが学んでいる時、アレクサンダーテクニークを新たに実行するのは教師ではなく学んでいる人間だからだと私は理解している。教えている人間が学んでいる相手に「アレクサンダーテクニークをする」のではない。面倒なことに聞こえるかもしれないが、これが施術者と呼ばない理由である。ちなみに、学んでいる側は「生徒 pupil」と呼ばれることが多い。
学んでいる人間がアレクサンダーテクニークの学びを自ら実践に移す。この積極的な参加がアレクサンダーテクニークを学ぶということだと私は思っている。「してもらう」とは少し違う心構えが必要だ。ここが厄介と言えば厄介かもしれないところであり、面白いところでもある。
とはいえ、特定のエクササイズをしなければいけないなどということは全くない。セッションの間、そして日常生活に戻ってから、自分が何をしているか、自分に何が起こっているかに意識を向けることが重要だ。この意味でアレクサンダーテクニークは、脳・思考のワークとも言える。
そもそもアレクサンダーテクニークにエクササイズはほぼ存在しない。1つだけ例外があるのだが、別の機会にどこかで紹介できればと思う。

こんなこと書いてていいのかと心配になってきた。
ちゃんとしなきゃ病の発動だ。先を続ける。

3. 私の理解と経験から言うと、セッションの中でアレクサンダーテクニークの教師がすることの1つが「耳を澄ませること」である。もちろんこれは比喩的な言い方で、主に、目で見て観察すること、話を聞くこと、そして、手で触れて何が起こっているかを感じること、の3つを含んでいる。
このうち、「手で触れる」というところがアレクサンダーテクニークのセッションの1つの特徴で、これを「ハンズオン Hands-on」と呼んでいる。

ハンズオンは元々「伝えること」「導くこと」を第一の目的としてアレクサンダーが始めた[1]。ハンズオンという教え方に信頼を置くようになったのは1914年前後からだと言われているが[2]、いつから始めたのかは定かではない。1914年というと、アレクサンダーがテクニークを教えるようになってから少なくとも10年以上は経っている。それまでのアレクサンダーは専ら言葉を第一にテクニークを教えていた。

これは私の勝手な仮説なのだが、このハンズオンが生まれた瞬間がテクニークの大転換点で、これによりアレクサンダーテクニークの2つの相を持つようになった、と考えている。
1つ目の相は、アレクサンダーが自らの声の問題を解決したような自分にはたらきかけるものとしてのアレクサンダーテクニークである。アレクサンダーが初めて行った「伝える」ハンズオンはこの相から生まれた。
もう1つの相は、このハンズオンから発展したコミュニケーションとしてのアレクサンダーテクニークである。「耳を澄ませる」ハンズオンはこちらの相の産物だ。
近年のアレクサンダーテクニークはこの2つの相の重なり合いでできていると私は考えている。これまで私が経験した様々なアレクサンダーテクニークのセッションは、どちらの相にどのくらいの重きを置くかによって、セッションで大切にすることが異なっているのだと整理している。だが、大きな目的はどちらも同じだ。「無意識(自分で気がついていない習慣)の意識化」である。

私が学んでいるハンズオンの特徴を一言で表す言葉が「ノン・ドゥーイング non-doing」である。これは「何もしていない」という意味が近いと思う。「する doing」「しない not doing」の間にある第3の層だと私は受け止めている。実際に体験するとこの3つの違いは明らかである。このノン・ドゥーイングにアレクサンダーテクニークのセッションの肝があると私は考えている。ハンズオンの手は相手に何かをするための手ではない。それは気がつくための手である。
ロンドンで活動しているアレクサンダーテクニーク教師のアンソニー・キングスレイは、アレクサンダーの著書『The Use of the Self』の新版に寄せた序文で、このハンズオンの経験を「アレクサンダー・タッチ」と呼び、次のように書いている[3]。

アレクサンダー・タッチは華麗なる舞踏であり、静寂の交響楽である。非訂正的で、非操作的である。アレクサンダー・タッチは何かを命じるのではなく、防ぐ。こうであるべきと要求するのではなく、あるがままを肯定する。アレクサンダー・タッチは、教師自身のノン・ドゥーイングから生み出される必要がある。そして、この深い受容の感覚によって、生徒の内から変化が現れる。このような無条件のタッチは真の意味で稀有な経験である。

The Alexander touch is a dance of poetry and a symphony of silence. It is non-correcting and non-manipulating. It prevents, not prescribes. It affirms what is, rather than demands what should be. The Alexander touch needs to emanate from the teacher’s own condition of non-doing. And out of this deep sense of acceptance, change emerges in the pupil. This kind of unconditional touch is indeed a rare experience. (p.7)

F.M.Alexander: "The Use of the Self", "A New perspective"より筆者の日本語訳 (p.7)

少々情熱的すぎるかなと私なんかは思ってしまうのだが、ここに込められたメッセージはよく理解できる。なお、このアンソニー・キングスレイの文章は、アレクサンダーテクニークの素晴らしい導入文だと思う。興味のある方は是非一度目を通していただきたい。


アレクサンダーテクニークのセッション -- 私の経験

ここでようやく私の経験の話に戻る。

私がほぼ毎日していた・受けていたのがこのハンズオンによるセッションであある。この中で、私は自分の筋肉の緊張、より詳しく言うと「自分が知らず知らずのうちに筋肉を緊張させ続けている」ことに気がついていった。

ところで、私は「筋肉の緊張 Muscle Tension」という言葉をよく使ってきたし、よく聞いてきた。一方、神経生理学には「筋緊張 Muscle Tonus」という言葉がある。筋緊張は学術用語のため「神経生理学的に神経支配されている筋に持続的に生じている一定の緊張状態」というはっきりとした定義があり、《受動的な筋の伸長を中心に、視診・触診・動作による観察など》によって検査される[4]。今のところ、私にはこの2つが同じものを指しているのかがわからない。だから慣れている「筋肉の緊張」という言葉を使うことにする。

「自分が知らず知らずのうちに筋肉を緊張させ続けている」というのは1つの習慣である。
アレクサンダーテクニークのセッションは立つ、座る、横になるのどれかの状態からスタートすることが多い。これらはどれも日常的な動作・状態である。立っている、座っている、横になっているために何かをしているつもりはないし、何もする必要はない、と私たちはそう思っているだろう。これは正しい。だが、しているつもりはなくとも、実際には私たちは何かをしていることがほとんどだ。してしまっている、と言った方が適切かもしれない。これが「自分が知らず知らずのうちに筋肉を緊張させ続けている」の意味するところである。
つまり、これは無意識の意識化の話なのだ。「緊張させ続けている」は自分がしていることである。そのため、少し訓練はいるが、「緊張させ続けている」は自分で止めることができる。
これがアレクサンダーテクニークで言うところの筋肉の緊張の緩和(リリース)である。

私が特に長い時間がかかったと思うのが、肩と背中である。
これらの過緊張は私の局所性ジストニア的な症状にも大きな影響を与えていたと思う。以前紹介した私の最初の仮説にも当てはまる。

実際に取り組んだことは「気がついて、止める」というどちらかと言えば思考的なプロセスである。そこには、姿勢など実際にしてしまっていることを止めるというどちかと言えば身体的なプロセスも含まれる。
このプロセスが進むことによって、私は自分が筋肉を緊張させた瞬間にも気が付きやすくなっていった。卓球中にスマッシュを打とうとする直前に、力が入っていることに気がついたこともある。自分の感覚が少しずつ戻ってきたのである。

当初の私は自分の筋肉の緊張に全く気がついていなかった。
私は以前、散髪の途中にマッサージをしてくれる床屋に通っていた。肩のマッサージのたびに「肩、めちゃめちゃ凝ってますね」と言われていたのだが、私にはその実感が全くなかった。肩が凝ってるってどんな感じ?と思っていたくらいだ。
でも、今ならわかる。昨年日本に一時帰国した際、同じ床屋に行き、同じようにマッサージを受けた。「肩、凝ってますか?」と私が聞くと、その理容師さんは「いえ、ほとんど凝ってないですね」と言った。
客観的な証拠とは言うには弱いが、変化を示すエピソードではあるかと思う。

背中についても同様である。こちらは椅子に座っている姿勢の変化が大きく関わっている。これは外から見ても明らかだったようだ。感覚の変化は少しずつ訪れた。
背中が過度に緊張している時の私は真っ直ぐ座り過ぎていた。この「真っ直ぐ座り過ぎていた」姿勢が、「真っ直ぐ座る」へと変わったことを自覚するには少し時間がかかった。だが、こうなると反対に、「真っ直ぐ座りすぎている」時にはそれがわかるようになった。

★ ★ ★ ★ ★ 

私は、これらの変化が私の局所性ジストニア的症状の変化に大きな影響を及ぼしたと思っている。前回書いたフェーズの変化をもたらしたのは大きな要因がこのハンズオン・セッションからの学びにあった。
これらはどれも、局所性ジストニア的症状やその部分へ直接はたらきかけたわけではない。もっと全体的なものだ。そのため、総合的・全体的に変わった結果、その影響が私の指へも良い形で反映されたと言うべきだろう。

そのプロセスで特に重要だと思っているのが、感覚の復調である。
筋肉の緊張を解くことによって、全くわからない状態からわかる状態へ改善していった。これが、全く何もわからない期 →〈うまくいかない〉がわかる期 →「〈うまくいかない〉じゃない」がわかる期 →〈うまくいく〉がわかる期、という非常に直感的な状態の変化を牽引していたのだと受け止めている。

ここまで、アレクサンダーテクニークのセッションに関する私の経験を書いてきた。次回も引き続き、この点についての経験を書き加えていく。

参考文献

[1] Majory Barlow: "An Examined Life", Mornum Time Press (2002) p.65
[2] Malcom Williamson: "Alexander and the Delsarte system (or, Alex through the looking glass)", STAT News (2021) 11(3) p.27 - 28
[3] F. M. Alexander: "The Use of the Self", Orion Spring (2018) (Originally published in 1932 from Methuen & Co. Ltd.)
[4] 後藤淳: 『筋緊張のコントロール』 関西理学 (2003) 3 p. 21 - 31

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?