見出し画像

親自身が、「子どもと私は違う」とちゃんと分かっているのかという問題について。

親と子は、別の人間だ。
家族であっても、血が繋がっていても、根本的なところでいうと違う人。

似ているところがあろうとも、感じ方や考え方まですべてが同じではない。

子育てで悩んでいる保護者のかたの多くは、ここをごっちゃにして考えている人が多いように感じている。

つまり、子どもと自分を「同じ人」として見ている。

私が思うことは、「あなたもそう思うだろう」と考える。家族だからなにを言わなくても分かる。理解できる。と、思う。理解が出来て当たり前だと思う。

理解が出来ないようなことをすると、「この子が分からない」と言って困惑する。

理解できるのが当たり前で、分かるのが当然だと思っている。

でも、100%すべてのことを理解するなんて、土台無理な話。

夫婦なら分かりやすい。「結局、他人なんだよね」と思える。

我が子は、難しい。自分がお腹を痛めて産んだ人間。

「結局、子どものことなんて分からない」なんて言われても、受け容れることは難しい。

誰よりも、繋がりを感じるのが母親という生き物だろう。その気持ちを否定するつもりはない。

我が子と他人の子を一緒に見ることは出来ないし、自分の子が一番かわいいと思うのは親なら当然。

その上で、「出来るだけ、自分の子と私は違うということを理解しましょう」という話を今日はしていきたい。

出来ることの効能は、大きく3つある。

① 子どもに対して、必要以上にイライラしない
②聴ける、関心を持つことができる
③ 人間関係のストレスが下がる

詳しい説明は、後半で取り上げていく。


知っていると分かるは、違う

「不登校を経験していないカウンセラーに話を聞いてもらっても、どうせ分かってもらえない」

ある日、生徒が言った。

僕は、不登校を経験した人と当たり前のように学校へ行っていた人では、大きな違いがあると思っている。

別にカウンセラーや先生、不登校関係者がみんな不登校経験者であるべきだと言いたいわけじゃない。

経験した人としていない人では、もうまったく違うのだ。

不登校の子に話を聞き、体験談を読み、知識として「分かった」と思っても、それは「分かった」ことにはならない。

どれだけ旅行のガイドブックを読んだところで「行った」ことにならないのと同じこと。

「知っている」と「分かっている」には、もう天と地ほどの差がある。

さらに言うと、たとえ不登校経験者であっても、不登校の気持ちは分からない。

分かるのは、「自分の気持ち」であって、「不登校の子すべての気持ち」ではない。

僕たちは、本で読んだから「分かっている」と思ってしまう。
自分が経験したから、「分かるよ」と思ってしまう。

でも、人によって感じ方は違う。同じ料理をたべても、ある人は「美味しい」と思うし、別の人は「辛い」と思う。

「分かる」と思うのは、はっきり言って傲慢だ。

僕たちは、どこまでいっても誰かの気持ちを「分かる」ことは出来ない。

理解した気になっているだけで、ほんとの意味で「分かった」ことにはならない。

不登校を経験していない人よりも、経験した人のほうが「分かる」に近づくことは出来るだろう。

でも、100%ではない。

すべて、まるっとまるごと理解するなんてエスパーでもない限り不可能だ。

僕たちは、誰かの気持ちを理解しようと思うとき、自分の経験や感覚で考える。

たとえば、子どもが学校へ行きたいけれど行けないで困っている場合。

「あぁ、風邪引いているとき、大好きな激辛料理が食べられなくてつらかったなぁ」という記憶をたどり、「ツライ気持ち、分かるよ〜」となる。

これは、相似形の悩みだ。

出来るだけ似たような形を見つけ、共感するようにつとめる。

気持ちを理解しようとする姿勢としてとても正しい。

ただ、ここで自覚しておく必要があるのは、「あくまで、似たような形だ」ということ。

言うまでもなく、風邪で激辛料理が食べられない悩みと学校へ行けない悩みは違う。

子どもに「私も……」と言って、激辛料理が食べられなかった悩みを話しても、「いや、それとは違うでしょ」と言われてしまうだろう。

自分の中にある相似形の悩みをもってきて、共感しようとつとめるのは大事なこと。

けれど、「一緒だから分かる」と思わないこと。

たぶん、こういう気持ちなんだろうな、ととどめておくこと。たとえ、まったく同じ経験をしたといても、状況によっても違う。感じ方によっても違う。

大正時代と今の時代では恋愛も違うように、たとえ同じでも、それは同じではない。

僕は、中学のときに学校がしんどくなった。高校は不登校で、大学生のときには引きこもりになった。

でも、僕は不登校の子の気持ちが「分かる」とは思わない。

原因も背景も人によって違う。

「分かる」と思った瞬間、大切なことが見えなくなってしまう。

すべて“同じだ”と勘違いが始まる。

これが、「分かっている」と思うことの危険性。

「分かっている」と思うので、すべて自分の気持ちで確認をとる。
「私ならこう思うなぁ」「こんなことをされるとイヤだなぁ」と。

不登校体験談を鵜呑みにしてはいけないのは、彼らが話すのは、あくまで“自分”の話であって、不登校の子全員を代弁しているわけではない。

「不登校の子はね〜」なんていうふうに、話す人もたまにいるけれど、それはあなたであって、他のみんなが同じように感じているわけでは決してないのだ。

「分かっている」と思うと、本人の気持ちを確認せずに、自分で勝手に判断する。「こう思うだろう」という推論だけで動いてしまう。

「私ならこうしてもらうと嬉しいから、こうしよう」と行動をする。

でも、何度もいうように、自分が「いいな」と思っているだけで、本人が同じように感じている確証はどこにもない。


違っていると分かっていることで得られる効用

1. 子どもに対して、必要以上にイライラしない
2. 子どもに関心を持てるようになる。
3. 人間関係のストレスが下がる

ここから先は

2,817字
この記事のみ ¥ 300

たくさんの方々に届くように、マニュアルや資料などをどんどん作っていきます。できるだけ無料で公開できたらいいなと思っているので、「役に立つ」「参考になった」と思ったら、投げ銭お願いいたします。