ウクライナ語文法シリーズその5:文字・音の交代
今回はウクライナ語の学習において押さえておかなければならない音の交代(чергування)について解説していきます。
なかなか難しい内容になってきますのでここで全てを覚えてしまわなくてもよいと思います。今後、名詞や動詞の変化に入っていく中で振り返って参照していただければ幸いです。
一部で少しマニアックな歴史言語学の話もしていますが、興味のない方はその部分は飛ばしてしまってください。
なお、今回以降は単語の発音のカタカナ表記を記載しません。
読み方については過去記事の母音の発音、子音の発音(1)、子音の発音(2)を参照してください。
е/о - іの交代
ウクライナ語の軟母音 і は学習者にとって非常にやっかいな音です。同時に、数あるスラヴ語の中でウクライナ語を大きく特徴付ける要素の一つともなっています。
ウクライナ語では、同じ単語の中で е または о と і が頻繁に入れ替わります。特に短い単語や語尾に近いところに е、о、і を含む単語を見かけたら警戒して辞書を確認するようにしましょう。
全てが当てはまるわけではありませんが、ウクライナ語には「е/о を含む音節が閉音節になるとき、е/о が і に変化する」という法則があります(以下この記事中では「法則」と呼びます)。
「閉音節」というのは子音で終わる音節のこと(母音で終わる音節は「開音節」といいます)です。音節というのは、単語の中の音声的な区切れ目のことで、例えば ма́ма という単語は音節として ма/ма と区切られ、ма́рка「ブランド、切手」は мар/ка と区切られます。このとき мар は子音で終わっているので閉音節、 ка は母音で終わっているので開音節となります。
実用的には、-а/я で終わる女性名詞や -о/е で終わる中性名詞が語幹に е/о を含む場合、女性名詞と中性名詞の複数属格は語尾がない、つまり子音で終わることが多いので、閉音節となって і に変化します。
逆に、男性名詞または子音で終わる女性名詞の単数主格に і が含まれる場合は語幹の上では е/о が存在するが、それが і に変わって現れており、属格などで当該の音節が開音節になる場合には е/о が現れる、といえます。
ただし、この法則に当てはまらない単語もかなりありますので、繰り返しになりますが怪しいと思ったら辞書を確認しましょう。
交代の法則については頭で「この単語はこうだから~~」と考えるよりは素直に「そういうもの」として覚えてしまった方が精神的に楽ですので、無理に全てを覚える必要はありません。
法則に当てはまらないのは以下の場合です。
(1) -оро-、-ере-、-оло-、-еле- または -ор-、-ер-、-ов-
これらは現代では語幹に е/о が現れていますが、歴史的には е/о ではなく、 ъ や ь という古いスラヴ語での母音を起源としていますので、法則は当てはまりません。
(2) 出没母音の場合
ウクライナ語では単語の変化の際に е と о が消えたり現れたりすることがあります。これを出没母音と呼びます。
この場合、これらの е と о も母音 ь と ъ を起源としますので、法則は当てはまりません。
(3) 一部の接辞
単語の前につく接頭辞や後につく接尾辞の中には閉音節でも е/о を保つものがあります。一部の例を紹介します。
(4) 一部の硬い意味の単語・類推によるもの
「人民、国民」を表す наро́д や「法律」を表す зако́н はそれぞれ *нарід や *закін となっても良さそうなものですが、なぜかそうはなりません。
また、осно́ва「基礎」や імена́「名前(複数)」の複数属格形はそれぞれосно́в と іме́н ですが、これらは主格などの形に引っ張られるなどによる「類推」という現象によるものではないかと考えられています。
(5) 動詞の二人称単数現在形及び命令形
動詞の二人称単数現在形は -ш で終わります。
また動詞の中には語尾を取って語幹のみとすることで命令形を構成するものがあります。
これらの場合は閉音節になりますが、е/о が保たれます。
ただし、まれに法則が適用される場合もあります。
(6) 外来語
外来語では元の言語の母音がそのまま取り入れられ、変化してもこれが保たれます。
ただし、比較的古くに導入され馴染みの深い外来語には法則が適用される場合があります。
ウクライナ語における母音 і
е が狭くなって і になるのは感覚的になんとなく分かるかと思います(日本語の北関東の方言でも「イ」と「エ」の境目が微妙になり、「色鉛筆」が「エロインピツ」のように発音されたりするそうです)が、о が і になると音の印象がだいぶ変わります。
こちらはおそらく歴史上、初期の段階で о が狭まって у に近い音となり、さらに у が前寄りの発音となって「ユ」に近い音(ドイツ語の über の ü のような)となり、その後円唇性が失われて і の音になったのだろうと考えられます。なお、ウクライナ語の方言によっては і ではなく у や ü に近い発音が残されている場合もあります。
ところで、ウクライナ語における і の音は二次的に発生したもので、その起源には2通りあります。一つ目は今回出てきたウクライナ語特有の法則によるもの、もう一つは古いスラヴ語にあった ѣ(ヤチ)という母音です。
ヤチはインド・ヨーロッパ語族からスラヴ語が分かれた当初はおそらく長い「エー」の音だったであろうと考えられていますが、現代のスラヴ諸語では言語によって様々な母音と合流してしまっています。ロシア語やベラルーシ語では「イェ」に、ブルガリア語では周りの音によって「ヤ」もしくは「エ」に、セルビア・クロアチア語では「イ」または「イェ」に、ポーランド語では「イェ」または「ヤ」に、チェコ語では「イェ」または「イー」に変化しており、そしてウクライナ語では「イ」の音に変わっています。
語源的にヤチが і に変化した単語は原則として今回の法則とは無関係ですので、開音節だからといってе/оとの交代が起きることはありません。
ちなみに、二次的に発生した і とは別に、古い東スラヴ語には軟母音の「イー」と硬母音の「ゥイー」の区別がありましたが、ウクライナ語ではこの二つの母音が合流して и として引き継がれました。例えばウクライナ語のви́лити 「注ぎ出す」と вино́ 「ワイン」の語頭はどちらも同じ ви- になってしまっていますが、この区別を残しているロシア語ではそれぞれ вылить と вино となり、вы- と ви- で別の母音となっています。
子音の交代
ウクライナ語では語の派生や名詞、動詞の変化において語幹の末尾の子音が変化する場合があります。
いずれもここで全ての対応関係を網羅して覚える必要はありません。名詞や動詞の変化形について学ぶ際に覚えましょう。
ただ、知らない単語に行き会ったときにこの対応関係が分かっていると、知っている単語との関係性や元の形の予想ができることがあって非常に便利ですのでご紹介します。
語の派生に関わる対応: к – ч、г – ж、х – ш、ц – ч
この対応関係は、主に名詞から動詞や形容詞、別の意味の名詞、指小形などが派生する際に現れます。実例を見てみましょう。
このほか、一部の名詞の呼格でも見られます。
名詞の格変化に関わる対応: к – ц、г – з、 х – с
男性・中性名詞の処格形及び女性名詞の与格・処格形で起こります。具体的には名詞の変化の説明で見ますが、実例を紹介します。
動詞の変化に関わる対応:т – ч、д – дж、с – ш、з – ж、к – ч、г – ж、х – ш、ст – щ、зд – ждж
動詞の現在形の変化もしくは被動形動詞において見られます。
前者は動詞によって、全ての人称で交代が見られるもの(第一変化動詞)と一人称単数形のみで見られるもの(第二変化動詞)とがあります。
「被動形動詞」や「第一/第二変化」といった用語も含め、詳しくは動詞の変化で見ることにしましょう。
ウクライナ語における子音の交代
以上で紹介した子音の交代は、言語学的に「口蓋化(palatalization)」という現象によるものです。
日本人には馴染みがないように思えるかもしれませんが、実は意外と日本語にも類似の例が多数あります。例えば五十音図を見ると「い」の段の子音はいずれも口蓋化しています。「し」や「ち」は他の「サ」行・「タ」行の音とは全く異なり、ローマ字表記でもそれぞれ shi や chi と書かれます。
また九州の一部の方言では「き」の音も口蓋化して「ち」になるため「柿」が「かち」になりますし、志村けんさんの「なんだチミは」も「君」が口蓋化しています。このほか、これも元は方言ですが「かっこいい」を「かっちょええ」や「かっちょいい」と言ったりしますね。
これらは全て口蓋化の一例です。
ウクライナ語を含むスラヴ諸語は歴史的に大きく2度の口蓋化を経験してきました。それぞれ第1次口蓋化と第2次口蓋化と呼ばれます。
詳細については長くなるので触れませんが、上記で紹介したもののうち к - ч、г - ж、х - ш の対応が概ね第1次口蓋化によるもの、к - ц、г - з、х - с の対応が第2次口蓋化によるものです。
スラヴ諸語のグループ分けにおいてはこの口蓋化の特徴が一つの重要な指標となります。
例えばポーランド語やチェコ語などの西スラヴ語群では、一部の特定の状況において第2次口蓋化が現れず、他のスラヴ諸語との間に線を引く指標となっています。
いずれも(歴史的に)子音の直後に前舌母音(舌の前の方で調音される母音)、つまり「い」や「え」のような音が来た場合に口蓋化が起きています。
もっと言えば、ウクライナ語で軟母音字が置かれると直前の子音が軟子音化するというのと同様で、それがかなり昔に起こったために更に進んだものと言えるでしょう。
きりがないので全ては網羅しませんが、例えば例として挙げた річни́й 「年の、毎年の」は рік 「年」に形容詞接尾辞の -н- をつけて派生させたものです。この -н- は歴史的には -ьнъ という形で母音 ь は前舌母音でしたので、その直前の к が口蓋化して ч になったというわけです。
実用的には、т - ч や с - ш などのペアは日本語の感覚でも分かりやすいと思いますので、それよりも特に к - ц - ч、г - з - ж、х - с - ш の組み合わせを常になんとなく意識しておくと良いでしょう。
і – й、у – в の交代
ウクライナ語の正書法では語頭の і、й、у、в には要注意です。単語がこれらの文字から始まり、その直後が子音の場合には і と й 、у と в がそれぞれ入れ替わることがあるのです。
具体的には、母音で終わる単語が前に置かれた場合 і が й に、子音で終わる単語が前に置かれた場合は й が і に変わることがあります。
同様に、母音で終わる単語が前に置かれた場合 у が в に、子音で終わる単語が前に置かれた場合はвがуに変わることがあります。
特に頻出の接続詞 і/й「~と」と前置詞の у/в「~の中に、~の中へ」を書くときに注意です。
いかがでしたでしょうか。
今回の解説では後々に解説するときに使う用語のほか、スラヴ系言語を学んだことのない方にとっては理解のハードルが高い概念が多数出てきました。
何度か書いていますが、今すぐこれを覚える必要はありません。
名詞や動詞の変化を学ぶ際や、様々な文章・発言を聞いていく中で自然と見についていくと思います。
(とは言いつつも私自身も未だに良く間違えます。。。)
次回からはしばらく名詞について見ていきます。
その中では当たり前のように音の交代が起こっていますので、今回の記事を適宜参照しながら見ていただければと思います。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?