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音楽評論をエンタメに変えた男たち

「研究」と「情報」の音楽評論から「エンタメ」としての音楽評論へ

さほど新しい話ではないんですが、昨年、細馬宏通の『うたのしくみ』を再読して、改めて思ったのです。

こんな時代で、ライブでも思いっきりシンガロングできないし、拳を振り上げて楽しめないし。我慢を強いられ続けているわれわれ音楽ファンですが、だったら、それとは別の、音楽の新しい楽しみ方を積極的に取り入れていくことも考えていいんじゃないか。例えば音楽評論なんかも、最近は「楽しめるもの」になってるよな、と。

その昔、音楽評論っていうと、まずは「研究」的なものでした。例えば、小泉文夫先生のような。

この方は、民族音楽の研究家で、芸大に記念資料室があるほどのレジェンド。日本での草分けです。

世界各地をフィールドワークして、学術的な本も、一般向けの入門書もいっぱい書いている。

あるいは、クラシックやジャズにおける楽曲分析も「研究」系ですね。音楽理論などの知識が必要なので、最近は割と一般向けのものもありますが、かつては専門書の領域だったと思います。

「情報」の方は、もっとくだけた、われわれにもお馴染みの、音楽記事。つまり雑誌なんかで、アーティストの新譜情報とか、コンサート情報を紹介する系。もちろん、ただ「情報」だけならレコード会社の広告で充分なので、ここに「評価」がつきます。だから一応評論。

後は、アーティストのインタビューや、海外フェスのレポートやら。そんなのも広く「情報」系です。

もっとも、そこからその人独自の「論」を展開している場合もあって、そこら辺は「研究」系とかぶったりもします。

これが昭和~平成の、音楽評論を構成する、二大潮流だったと思います。

それに共通していることは、あくまで音楽が主役であること。

音楽を、より深く理解したり、もっと楽しんだりするための、補助線として機能している。

しかし、昨今の音楽評論は、そうじゃなく、それ自体で一個のエンターテイメントとして自立しているような、そんな面白さを持っているんです。

先鞭をつけたのは、「笑える音楽評論」マキタスポーツ

実際の順序は正確ではありませんが、個人的な印象としては、こうした「エンタメ音楽評論」の存在をはっきり意識したのが、マキタスポーツの『すべてのJ・POPはパクリである』(2,014年)でした。

タイトルが刺激的で、一見するとJ・POP批判の書のようですが、まったく違います。むしろJ・POP愛に溢れた、リスペクトの書と言っていいでしょう。

本書が書かれた動機は、意外なことにSNSにあります。このnote.も、そうですが、ツイッターなどのSNSが普及することで、誰もが発信者になれた。

でもそれは、ともすると、「自分も何か発信しなきゃいけない」という同調圧力になりがちです。

そこで、そうした圧力に屈しないために、例えば音楽なんかも、一部の天才のみに可能な特殊な業なんかじゃなくて、一定の「法則」に従えば誰でもつくれるものなんだよ、ということを示し、少しでも生きづらさを和らげたいという思いが出発点だそうです。

この「法則」を導き出すために、マキタスポーツはJ・POPの歴史を彩る数多の名曲を、細かく分析していきます。

それも、かつての音楽評論によくあった「お手軽な印象批評」ではまったくないのです。

昔はねぇ、「南部アメリカのレイドバックしたフィーリングが濃厚に漂う」だの、「スポティニアスなギターソロが熱狂的」だの、いや、「スポティニアス」って何だよ、って小賢しいカタカナをちりばめただけの、よく読んでみると何も言ってないに等しいエセ評論が横行してましたよ。

けど、マキタスポーツは違います。こと細かにコードを分析したり、歌詞を解析したり、楽曲構成を検討したり。でも、ちっとも難しくない。ジャズやクラシックの楽曲分析と同じことをやっているのに、めっちゃわかりやすく、しかもきれいにロジカル。

もちろん、本職は芸人さんですから、本来は本よりも、ライブパフォーマンスでこそ、威力が最大に発揮されます。

自分でギターを弾き、歌ってみせて、「ここがこうだから、こうなのよ」と実演付きで語り込む。

そう、語り込む。単に、冷静に研究結果を発表するのではなく、熱く語る。語り込む。ギターを弾きながら。

まさしく、「弾き語り」なのですね。

歌も、もちろんうまい、物真似も、さすがです。そうしたエンタメを駆使しながら、どうしてこの曲が素晴らしいのかを、明らかにしていくのですから、知的にも、情緒的にも、面白さ抜群。

まさに、「笑える音楽評論」です。

その片鱗が、会場に足を運ばずとも楽しめたのが、BSトエルビにてオンエアされていた番組『ザ・カセットテープ・ミュージック』だったのですが、惜しくも2021年で放送終了になってしまいました。

いや、これ、ほんと、残念。

もっともっとやってほしかった。

今では、書籍化された二冊の本で、その一端を窺うしかありません。

より精密に分析する「もう一人の笑える音楽評論」スージー鈴木

その番組『ザ・カセットテープ・ミュージック』で、マキタスポーツの相方を務めていたのが、スージー鈴木です。

この人も、音楽理論に詳しく、ギターのみならずピアノも弾ける。ただ、マキタスポーツに比べると、歌は下手(笑)。ま、芸人じゃないから、しょうがない。

しかし、関西弁まじりの軽妙なトークは、とてもわかりやすく、親しみやすい。

そして、マキタスポーツと同様、コードがどうの、リズムがどうの、と精緻に分析していきます。

また、この人は恐らく絶対音感か、少なくとも相対音感はあるらしく、聴いただけでメロディーがドレミでわかるみたい。だから、旋律のパターンなんかもぱっと聴き分けられるのが強みです。

例えば「ミファミレド」という音型が、さまざまな名曲のメロディーに頻出しているという指摘や、「ドシラ」という音型が「夏の終わりの哀愁を漂わせた楽曲」によく出てくる、これは沖縄の琉球音階に特徴的な音階だからではないか、などの指摘は、これまで誰もしてこなかったでしょう。

「ドシラ」のバリエーションに「シラミ」もありますが、いや、虱かい、というダジャレもありつつ。

と、文字で書くと、あんまり面白くないけど、やはりパフォーマンスでは笑えます。

とはいえ、著作も数多く、『イントロの法則』はタイトル通り、イントロのみに特化した音楽評論ですし、目の……いや、耳のつけどころがユニークです。

いわゆる「逆循環」というコード進行を、「後ろ髪コード進行」と名付けるセンスなども、「J・POP=工業製品説」などを唱えるマキタスポーツに共通していますね。「笑える音楽評論」において、ネーミングは非常に重要なアイテムだと申せましょう。

「発見する音楽評論」の細馬宏通

そして、冒頭に、再読したと書いた、細馬宏通。

この人も、音楽評論の流れを変えた一人だと思います。

何より、「身体性」から分析するという、アプローチが独創的。

実はマキタスポーツの著書でも、「身体性」がオリジナリティーの源泉として触れられてはいるのですが、なぜか深掘りされていません。「身体性を伴い表現されるものとしてのオリジナリティー」と書かれているだけです。やはり歌唱や演奏より、楽曲分析に傾くタイプだからでしょうか。あるアーティスト風の曲をつくってみせるという「作詞作曲モノマネ」なんて芸もある人ですから。

一方、細馬宏通は、音楽からダンスに渡る幅広いステージパフォーマンスについて研究している方。なので、「身体性」は欠かせない重要な要素です。

例えば、かの有名なチャック・ベリーのダックウォーク。これが何だかわからない方は、ぜひYoutubeなどでチェックしてほしいんですが、従来これはいわゆるステージを盛り上げるための、演出としか考えられていませんでした。

ところが細馬宏通は、この時のチャックのステップの踏み方を細かに分析し、そこにこの曲の独特なグルーブの秘密があることを明らかにします。

歌唱の分析にも、鋭い指摘がてんこ盛り。

例えば、ユーミンの名曲「やさしさに包まれたなら」。

この曲の新しさは、冒頭の「ちいさい頃は」にある。

日本語の歌は、言葉の一音にメロディーの一音が対応するのが原則ですよね。だからひらがなで書いた時の文字数と、オタマジャクシの数は同じはず。

ところが「ちいさい」は四文字なのに、童謡の「ちいさい秋みつけた」なんかでは、オタマジャクシ3つしか、当てられていません。つまり、「ちいさい」ではなく、「ちーさい」と歌っているわけ。

でも、「やさしさに包まれたなら」では、「ちいさい」にオタマジャクシ4つがちゃんと割り当てられています。しかも、「い」の音は、その前の「ち」より1オクターブも高い。そのためユーミンは、「ち、っいさい」という感じで歌っています。

このリズム感は、それまでの日本の音楽にはなく、ここにこそユーミンの新しさのひとつがある。まさに耳からウロコが落ちました。

時あたかも、1970年代。海の向こうでファンクが登場し、16ビートが徐々に時代のリズムになっていた頃です。それを逸早く「日本語で」成立させるべく、16ビートのハネた歌い方をユーミンはいち早く編み出していたんですね。それがこの曲の冒頭の音楽史的な意義だった。

ダックウォークも、「やさしさに包まれたなら」も、既にお馴染みのコンテンツですが、こんな風に「身体性」という角度で分析すると、未だに発見に満ちているんですね。本当に驚きました。

音楽も、音楽ヒョーロンも、楽しめる時代

「批評」というのは、創る側であるクリエイターにとって、諸刃の剣。褒められれば励みになるけど、けなされれば傷つく。

かの文豪・芥川龍之介でさえ、批評をテーマにした小説を書いています。「MENSURA ZOILI」がそれで、ゾイリア共和国という架空の国で、こういう名前の機械が発明されます。日本語に訳せば価値測定器。絵でも、小説でも、その機械にかければ、たちどころに芸術的価値が測定されるという代物。これに、久米正雄の「銀貨」をかけたところ、酷評。さらには芥川自身の「煙管」も「常識以外に何もない」「この作者早くも濫作をなすか」とぼろくそです。

やっぱり芥川ほどの文豪でも、批評には悩まされていたんでしょうね。

しかし小林秀雄の諸作のように、この小説がいい、あの小説がダメ、といった「評価」だけではなく、それ自体ひとつの文学作品として読むに耐える「文学評論」だって存在します。

単なる「批評」は、クリエイターにとって、時に敵にもなるけれど、「評論」であれば、それ自体がクリエイティブ。

そして音楽評論もいま、そういう段階に達したと言えるでしょう。

いや、それどころか、「評論」なんて堅苦しい言葉には収まりきらない、何か新しい楽しさがクリエイトされているとさえ思います。

音楽を、ただ聴くだけ、踊るだけ、一緒に歌うだけでなく、もっと知的に語り倒し、遊び倒している。

彼らのやっていることに、何か、「評論」じゃない、新しい言葉がほしいなー、と思うのですが、うまく言い当てられません。

とりあえず、「音楽ヒョーロン」とでもしておきますか。

そして、マキタスポーツ、スージー鈴木、細馬宏通のお三方を、「おれたちヒョーロン族」と勝手ながらくくらせていただいて、この言葉探しは宿題にしたいと思います。

我慢の時代。ミュージシャンもさまざまな工夫をしています。

聴いているわれわれも、さまざまな楽しみ方を工夫して、音楽ライフを豊かにしたいものですね。



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