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【放課後日本語クラスから⑧】「恵子」が映し出す、私たちの今

こんにちは。公立高校で日本語指導員をしている、くすのきと申します。

日本語補習クラスは、正規授業の一環として行われているわけではありません。実施のつど先生方が全員の出席確認をしてくれますが、実際にクラスに出席するかは、それぞれの生徒のその日の予定次第ということもあります。

たとえば、「コンクールが近いから、最初に部活の練習に行ってもいいですか」「生徒会活動があるから、今日は来られたら来ます」「英語スピーチの特別練習があるので、そっちに出なくちゃいけないんです」などなど。担当する8人全員がそろって勉強するのは、なかなか難しいのが現実です。

そんな、ちょっと落ち着かないながらも、それを受け入れながらクラスを進めていくなかで、先日Aさんとの間であるやりとりを経験しました。

「私たちが外国人だから……」

Aさんは所属するサークルが大好きな非漢字圏の女子生徒。漢字には苦手意識がありますが、短文づくりでは、自分なりの考えや思いを、自分が使える文型を使って上手に日本語で表現できることにいつも驚かされる生徒です。

その日も、Aさんは日本語補習クラスの最初の1時間は部活動に参加したいと言ってきました。

S「先生、サークルに行ってきてもいいですか」
T「またですか?」
S「大会が近いから練習しなくちゃ追い付かないんです」
T「それじゃあ、1時間で必ず戻ってきてね。1時間ですよ!」
S「はい。バイバーイ、先生!」
T「……(溜め息)」

しかし1時間経たないうちにAさんは戻ってきました。いつもにはないことでしたが、他の生徒が取り組んでいるプリントを渡し、進めるように促しました。

ところがAさんは、授業中は(学校の規則で)使用が禁止されているスマートフォンでテキストを打ち続けています。「Aさん、スマホはしまってください」と声をかけても、しまう様子がありません。

私は他の生徒の進み具合を一人ひとり確認してから、Aさんの隣に腰かけました。戻ってきたときに目の表情が硬かったのが、少し気になったのです。

そして、「1時間サークルに行くと言っていたのに、早かったですね」と声をかけました。しかし返事がありません。少し間をおいてAさんが話し始めたのは、学校の先生との間であったという次のような一件でした。

Aさんたち日本語補習クラスの生徒たちが、部活の練習に参加しているのを見とがめたある先生に、「どうして部活をやっているんですか。日本語の勉強に戻りなさい」というようなことを言われたというのです。

T「それじゃあ、日本語クラスの生徒みんなに言ったんでしょう?」
S「違う。私と友だちだけ」
T「? どうして?」
S「部活の練習だけじゃない。他のことでも、みんな私と友だちが悪いって言われる」
T「Aさんと友だちだけ?」
S「そう。私たちが外国人だと思って……」

悔しそうな、怒りを抑えているようなAさんの表情。不意を衝かれた私は一瞬黙り、次の瞬間、Aさんの腕を揺らしながらこう言っていたのです。

「そんなことないよ。私はAさんの味方だよ。いつだって味方だよ。友だちだってたくさんいるじゃない!」

ああ、なんという甘ちゃんなセリフ。なんという無責任な発言でしょう!(まったく、自分自身に失望します)

そして、そう言った途端、下まぶたにみるみる涙が膨らんできたAさんの顔を見て、私は逆にその発言を補うことも、訂正することもできず、言葉を呑み込むしかなかったのです。

『境界のポラリス』から響くもの

この一件から数日後、私はたまたま『境界のポラリス』(中島空・講談社)を読み始めました。第61回講談社児童文学新人賞の佳作を受賞したこの小説は、日本語教師、とくに海外につながる若者や子どもたちの支援に携わる方や日本語教師の間で、発売(2021年10月刊)と同時に話題になりました。

この本の主人公は、中国にルーツをもつ吉田恵子(中国名・小麗シャオリー)という日本の高校に通う1年生。

5歳で来日した恵子が小学校、中学校、高校でのさまざまな体験を経て、日本語の先生として関わることになった海外ルーツの同年代の若者や子どもたち、支援者との交流を通して、自分なりのポラリス(北極星)をめざして成長していくという物語です。

ある日、恵子はバイト先のコンビニでたった100円をごまかそうとしたお客と言い争うハメになり、つい中国語で怒鳴ってしまいます。恵子が中国人だと知った男はさらに居丈高に罵声を浴びせ(ネタばれになるのでちょっと割愛)、店を出ていきます。

泣きたいのか。叫びたいのか。
(略)
わたしが弱そうだから、バイトの店員だから、女だから、外国人だから、軽く見る男に怒りを覚えていた。
                       『境界のポラリス』より

(引用すると、ずいぶんキツく感じられるかもしれませんが、実際の小説はとても軽やかで、繊細で、伸びやかですのでご安心ください!)

短い間に、偶然にも出会ったふたつの「外国人だから」というセリフ。私は思わず息を呑み、ページの中のその部分を何度も見返していました。

誰もが「外国人・恵子」だという事実

Aさんや恵子が外国人であることは事実です。
しかし、もう少し考えを進めてみましょう。

それはここが日本だからです。

もしAさんや恵子が母国にいて母語を自由に話していたら、彼女たちは外国人ではありません。反対に彼女たちの国で日本語を話していたら、私たちは日本人は外国人です。

つまり、ここ日本では「外国人」を作り出しているのは私たち日本人だということ。そう、世界中の誰もが恵子だということなのです。

「外国人だから少しぐらいがまんするべきだ」「外国人だから軽く扱っても構わない」「外国人だから辛い目に遭っても仕方がない」「外国人だから厳しく言ったっていい」。

こんな不条理が許されていいわけはない。誰もが自分の身に置き換えれば、そのような憤りを覚えるでしょう。

にもかかわらず、Aさんの言葉に、私はある意味口から出まかせな反応しかできませんでした。私の中にも、Aさんは恵子だけれど、自分は恵子ではないという無意識の思い込みがあったのだと思います。

しかしその先入観を消すためには、どうしたらよいのでしょうか。

私にとってのそのためのヒントとして感じられるのは、『境界のポラリス』のラストシーンにある恵子のセリフです。

わたしね、みんなに会えて、楽しいだけじゃない。勇気も、もらってるんだ。いろんなもののはざまで、がんばってるみんなを見ていると、わたしもがんばろうって思える。(中略あり)
                       『境界のポラリス』より

ここに表されているのは、恵子がたとえ子どもであっても周囲の人たちをひとりの人間として尊重しているという意思です。同時にこのセリフは、私が海外ルーツの高校生と日本語指導を通じて関わっている最大の理由であるとも感じます。

いま、私の目の前にいる生徒たちは、やがてはこの日本を変え、支えてくれる存在です。そのことに敬意と希望をもち、なによりも私自身が恵子であることの認識を忘れずに、生徒たちと一緒に歩んでいきたいと思います。


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