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【放課後日本語クラスから③】失敗したらリベンジすればいい

 こんにちは。公立高校で日本語指導員をしている、くすのきと申します。

 10月に入って、ようやく本格的に今年度の授業が始まりました。ほぼ半年の待機期間を経て開始した放課後日本語クラス。私は前のめりな期待感をいっぱい抱えて、初日の授業を迎えました。

 しかしその日の帰路、私の頭は混乱していました。
 果たして今終えた授業は、自分が思い描いていた授業だったのか。 何かがちぐはぐな感じ。期待していた充実感にはほど遠く、いわば自分自身に失望していたことを、率直に認めなければなりません。

 このままでは、今日の授業をもとに次につなげようとしていた流れが崩れてしまう。
 態勢を立て直すためには、予定していた目標から何が、なぜズレてしまったのか。絡み合った糸をほぐし、整え直す作業に取り掛からなければなりませんでした。

『高校生版みえこさん』からのアイディア

 初回の授業で使用した教材のひとつは、『日本語学習で未来を描く~高校生版みえこさんの日本語ワークシート』(三重県国際交流財団)でした。

「みえこさん」表紙 (2)

http://www.mief.or.jp/jp/education_file/20210509kokomieko.pdf

 「みえこさんのにほんご」シリーズは 、JSL児童生徒の日本語指導で多くの教員や指導員の方が使われているので、ご存じの方も多いことと思います。

 その高校生版の初めの章で見つけたのが、「中学と高校を比べてみよう」という項目でした。 

 クラスの初日の授業で何をするか。教える側にとってあれこれ悩みは多くても、それを考えるのは、思いっきり夢や妄想を広げられる楽しい時間ではないでしょうか。
 私もじつにその通りで、この「中学と高校を比べてみよう」の見出しを見たとき、すぐさま、以下のような「使える!」理由が思い浮かんだのでした。

・生徒はつい半年前の中学時代を思い出し言語化することで、少し前の自分の振り返りができる。
・それと対比するかたちで、今通っている高校では何をしたいのか、あるいはどんなことに迷いや不安を感じているのか、自分自身に問いかけながら考え、言葉で表すことができる

 しかし、ただ突然「どんなことがあった?」「思い出してみて」「今どう考えている?」「話してみて」「書いてみて」と問い詰めても、生徒はすぐに答えることなどできないでしょう。
 今の今、自分が考えているわけではないことを言葉にし、人に伝えることが困難なのは、私たち自身よく知っていることです。

 「ああ、今はそういうことが求められているのか」と直感的に理解できるヒントを投げかけ、自分のなかから言葉が生まれるように仕向ける仕掛けが必要なはずです。

「マンダラート」で頭と心を整理

 そこで利用したのが、『日本語ロジカルトレーニング(初級)』(西隈俊哉・アルク)の「発想力」の章で紹介されている「マンダラート」でした。

 本書のマンダラートの例では〈買います〉という言葉が真ん中に置かれています。
 そしてその周りに、「スーパーで」「コンビニで」「本を」「ジュースを」など、関連する言葉が助詞とともに記されています。
 〈買います〉の周りを様々な言葉が取り囲むことで、その人なりの〈買います〉をめぐる言葉の世界が可視化されるというわけです。 

 このマンダラートの考え方をもとに、私は真ん中に〈中学校では〉と、〈高校では〉と記した2枚のプリントを作成しました。
 しかしそれでも、生徒が自分自身のことを振り返り、振り返って考えたことを日本語でアウトプットするためには、いくつかのハードルがあると考えました。
 そこでサンプルとして、生徒たちが〈中学校では〉のマンダラートと向き合ったときに思い浮かべそうな日本語を書きこんだプリントを作成し、参考にしてもらうことにしました。
 サンプルに用いたのは、以下のような、よくいえば再生産性のある(?)、悪くいえば平凡な、あたりさわりのない言葉です。

・言葉の例
名詞:漢字、日本語、科目、先生、友だち、アニメ、部活など
形容詞:好きな、楽しい、苦手な、むずかしいなど
動詞:がんばる、勉強するなど 

 以上のように、「中学と高校を比べる」という、自分自身に一番密着したトピックが、汎用性のあるフォーム(マンダラート)を利用することで整理しやすくなり、サンプルを見ながら行うので、アウトプットが比較的容易に行えるだろう。
 そのような予測を立てて、私は授業に臨んだのでした。

つまずいた計画

 しかし、1回目の授業で〈中学校では〉、2回目に〈高校では〉を進めようと考えていた私の計画は、初めからつまずいてしまいました。

 私はまず8人の生徒たちが漢字圏出身者、非漢字圏出身者に分かれて2~3人のグループを作り、母語(あるいは英語)で相談し、自分の思っていることを友だちと共有し、確認しながらマンダラートに書き込んでいってほしいと考えていました。そして2回目の最後に、ひとりずつひとつの短文を発表してもらおうと考えていたのです。

 板書しながら説明する都合もあるので、私はまず「前の席にすわってください」と呼びかけました。

 ところが、一番後ろの席にすわったふたりの女子が、まったく動こうとしません。「私の声が聞こえませんから、前の席に来てください」。そう促しても「ここで大丈夫です」との返事。
 “いやいや、そういうことじゃなくて”と思いながら何度か声をかけましたが、やはりまったく動きません。

 そのため、「じゃあ、みんな後ろの席に移ってください」と、逆に一同を教室の後ろ半分に移動させ、授業を始めることになりました。

 「友だちと相談しながらやっていいですよ」の呼びかけにも、そのふたりは「大丈夫です」「自分でできます」との返事。
 ここで私は、自分の想定通りには授業が進まないことを認めざるを得なくなりました。

 友だちと母語で相談するなかで自分の考えを確かめる。日本語のアウトプットだけを重視するのではなく、考えることそのものを深めてほしい。そのための授業をしたいというそもそもの発想は、生徒たちの拒否によって崩されてしまったのです。

拒否の意味はどこにある

 それでは何が問題だったのでしょうか。
 拒否されたその時に頭に浮かんだ理由はいくつかあります。「人とあまり交わりたくないおとなしい性格だから」「突然、友だちと話すように言われて戸惑ったから」「ひとりでできるのに、人と話すのはめんどうだと思ったから」などなど。

 しかし、ではなぜ「人とあまり交わりたくない」「友だちと話すのはめんどう」なのでしょうか。それが「もともとの性格」なのでしょうか。

 一人ひとりが書き込む様子を覗き込みながら、「いや、理由は私が考えていたようなことじゃない」と感じたのは、ある生徒が〈中学校では〉のマンダラートに「いじめされた」と書いているのを見たからでした。

 私が指導員をしている高校に入学する生徒の多くは、中学生になってから親に呼び寄せられた子どもたちです。日本語がほぼわからない状態で突然日本の中学校に入り、同じ年代の日本人生徒のなかで授業を受け、いっしょにさまざまな学校生活や行事を経験していきます。

 生徒たちに中学時代を思い出すような教材を用意したことは、配慮に欠ける行為だったのかもしれません。
 彼女たちが「自分でできる」という態度に終始したのも、もしかしたら友だちと関わることを避けるための、ひとつの習慣だったのかもしれないのです。

 この体験を、想像力の貧困としてこれからの戒めとするのか。よくあることとして、その日の振り返りの材料としてのみ、みなすのか。
 それは今後の授業でも、試されていくのだと思います。

話しかけてくれた少女

 ところで、かたくなな態度をとっていたふたりの女子ですが、マンダラートは、それぞれにユニークな仕上がりをしていました。

 ひとりは、真ん中に置いた〈中学校では〉の周りに、2~3の言葉を複文になるように配置していました。
 これは他の生徒には見られなかった発想で、「この子は“言われたことをやる”よりも、“自分なりの工夫をしたい”と考えるタイプなのかもしれない」と感じさせられました。

 もうひとりの生徒は、私がサンプルとして「楽しい」「がんばる」などという単語を挙げていたのが恥ずかしくなるほど、きれいに漢字を書き、マンダラートのひとつのマスの中に3行ほどの文を書いていました。
 「アニメが好き」という内容の文のなかでは、「竈門炭治郎」「我妻善逸」(『鬼滅の刃』の登場人物)という漢字まで丁寧に書かれていたのには、思わず「すごいわね。私だって書いたことありません!」と言ってしまったほどです。

 授業後、その漢字大好き女子が、教卓で片付け物をしていた私のところにひとりやってきて、回収した全員分の「マンダラート」を指して言いました。

T「先生、これ中学のときのことを書くんですか?」
S「…? そうですよ。何か間違えましたか?」
T「いいえ、大丈夫です」(ニッコリ)
S「? いいですか?」
T「はい」(ニッコリ)
S「??」

 ……いったい何を伝えたかったのでしょうか。
 決して表情豊かというわけではない目の動きからは(マスクもしていますし)、彼女の感情の動きを読み取ることはできませんでした。

 ただ、授業のあいだじゅう、言葉にならないねじれた挫折感を感じていた私にとって、それはその日の数少ない生徒との交流の瞬間でもありました。

 もしかしたら、「ひとりで大丈夫です」という言葉は、誰と相談しなくても自分でできる、という彼女たちなりのプライドの表明だったのかもしれません。

 だとしたら、先述したのとは別の意味で、私は反省しなければならないでしょう。
 こちらが「生徒たちのため」を考えてのような授業設計、あるいは自分の実践を試したいがための授業は、ある意味、単に自分の都合であり、生徒たちが望む方向や満足とは、必ずしも結びつかないのだということを。

 夜、私はその日いち日の振り返りの最後に、「今日の授業は失敗だったのだ」という思いにたどり着きました。

 ただ、失敗だったと認めたとき、落胆と同時に「それなら、失敗から学んだことを忘れないで次の授業を考えよう」という、新たな気持ちを感じることができたのも事実です。

 生徒から学ぶことを大切に。
 全力で迷いながら、進んでいきたいと思います。

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