図書の国(ある古書修繕員の話)

 その風貌で幾らも損をしてきた彼は、今日もまた一つため息を吐く。肩を落とし首を下げると、絹糸のように艶やかな金髪がふわりと揺れた。焦げ茶の羽織によく映える。
 図書の国と呼ばれるこの国では、本の内容や形態など細かい種類ごとに地区が分かれており、ここは第五区、和古書の修復を専門とする地区だった。彼は古書修繕員として、この地区に配属されている。
「ですから!絵巻物の修復ができるのは、僕たちだけなんです!どうして分かんないかなあ!」
 先程から一人の青年が、店土間で客人の説得をしている。十分近く続けているが、依然として説得相手の顔は渋いままだ。ここではいつものことだった。
「いや、とは言いましても……これは父から受け継がれた大事な……」
 そう言いつつ、若い客人は無遠慮な目で奥に座る主人を見る。金髪に鈍色の瞳、共衿に刺した濃紺の万年筆は、江戸の商家のようなこの空間で、ただただ異質だ。絵巻物修繕員の彼にとって、その美しい容姿は信用に影響する重大事だった。
「アオ、ありがとう。もう構わないよ」
 主人の声は涼やかで、しかし重厚に響いた。優しいが有無を言わせぬ重みがあるのだ。アオと呼ばれた青年が口を噤む。ぽろぽろと涙がこぼれていた。ただの擬音語でなく、本当に目から金平糖のような白い何かがぽろぽろとこぼれた。畳の上にいく粒も転がっていた。
 主人は、ゆったりと語る。
「私の容姿がお気に召さず、さぞ修繕の出来もご心配でしょう。しかし彼の言う通り、この国に絵巻の修繕員は私しかおりません。」
「……それは先ほども聞きましたが、しかし……」
 主人の空気に半ば飲まれながらもなお客人は不満を漏らしたが、次の一言に思わず口を閉ざした。
「それから、私は、この国唯一の絵巻専門であることに、誇りを持っております」
「……」
「この国では、書物は命より重い。我々修繕員ほどそれを知る人間はいません。それに何より、直したいほど大事なものなのでしょう、それは」
「……」
「我々にお任せ下さい。ご心配なら、そこでご覧になっていると良い」
 もう客人に、反論の言葉は残っていなかった。

 開いた絵巻は、触ってみると虫食いで穴だらけだった。恐らくは紙だけでなく字まで食べられているだろう。重症だ。
「アオ、少しもらうよ」
 先の白い涙の粒をいくつか拾い上げ、漉桁という紙を漉くための枠に置く。粒はすうっと溶け、透明な水を張ったようになった。
「漉き填めと言います。これで紙の穴を封じる。これだけだと、文字の修復はできないのですが」
 説明しながら、ぷつっと金の髪を引き抜く。一本だけだと、ますます繊細で空気に交じり消えそうだった。それを漉桁の水に浮かべ、その上に絵巻を置く。一度揺らす。絵巻が薄く光った。二度揺らすと穴が埋まり、三度揺らすと、そこになかったはずの字が浮かび上がる。唖然とする若き客人と、目を輝かせる青年アオの気配を感じ、主人は思わずくすりと笑った。
 彼の持つ″あったはずのものを見る目″は、和古書の完璧な修繕を可能とする代わりに、和に似つかわしくない容姿と、見えるべきものが見えない目を残した。彼は盲目だった。
「あとは、乾かせば修復完了です」
「……見事だった。ありがとう」
 客人はその見事な手腕に魅せられていた。そして確実に、主人に惹かれていた。主人のもとで働き始め、この店で数々の揉め事に巻き込まれていくとは、この時は考えてもみなかった。

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