「机」

 名は体を表す、なんて言葉がある。それって当たり前じゃないか。物より先に名前だけが存在するなんてこと、そうそうあるわけないんだから。水っぽいから「みず」って呼びはじめたんだし、山にあるような大きな石だったから「岩」って名付けたんだろう。後出しじゃんけんで、それっぽい呼び名を付けたって、ただそれだけのこと。

 でも、ふと思うんだ。それなのに、なぜこんなに、ぴったりなものと、そうじゃないものがあるんだろうって。

 例えば、机だ。この漢字の見事さは、どうだろう。「几」はまさしく、つくえを表すそうだけど、その足の伸びといい、天板の美しい平面といい、ほんと、「つくえ」というものを見事に表していると思う。ちょこっと添えられた、元々は木でできてたんですよーって主張してくる木偏も、なかなかいじらしいじゃないか。

 それに比べて、椅子。「子」にはあまり意味は無くて、「椅」がいすを表すそうだけれど、もう見た瞬間思ったね。どこに座るんだって。「奇」のどこに座るんだって。お尻に刺さるって。

 その名前の中途半端さが、もう、物にも出てる。椅子って言ったら、いろいろだ。座るところがちょっと斜めになってるとか、ひもでどこからか釣ってるとか、そもそもこれって椅子?っていうような球体とか。どんなものでも、デザインチェアーって呼べば、そうかなって思ってしまう。ちょっと節操なさすぎる。「奇」抜だ。

 一方で机はっていうと、斜めになってたらただの欠陥品だし、釣ってる机なんかないし、球体を指して机だなんて言った日には神経を疑われる。確固として、足があって平らな上辺をもつ「机」なんだよね。そういう不器用さっていうか、真っ直ぐさっていうか、そういうの好きだなって思う。椅子はもうちょっと、名に恥じぬ努力をしても良いんじゃない。

 名は体を表すって言葉がある。逆に言えば、名付けられた以上は、体の方が名に寄せていくしかなくなる。

 そういえば、人の名前はどうだろう。例えば僕は。ああ、ほんとぴったりって周りが思うような、そんな、名に恥じない体になっているのかな。名に寄せられているかな。あれれ、名って、もしかして重いのかな。

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