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[ 心理学 ] 人生を体験するのはシステム1。システム2は後付けで体験を解釈しているだけ(及川昌典, 2013)。

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システム1とシステム2

及川 (2013) の「無意識と幸福感」が面白い。

つまるところ人生を体験しているのはシステム 1 であって,システム 2 は事後的にもっともらしい説明をしているに過ぎないのだから。(p.16)

(2013) 「無意識と幸福感」

https://psych.or.jp/wp-content/uploads/old/60-13-16.pdf

ここでいうシステム1とシステム2というのは,経済学者のカーネマンによる心の区別。システム1というのは直感的に問題を解決し,システム2というのは理性的に問題を解決するというもの。システム1を情動,システム2を理性としてもいいと思う。

ファットマン課題

「つまるところ人生を体験しているのはシステム 1 」であるというのは,どうなんだろう?たとえば,ファットマン課題。

ファットマン課題。暴走するトロリーがある。前方に5人の作業員。このままでは全員亡くなる。今,あなたは橋の上にたってこの状況を見ている。となりの太った男を突き落とし,トロリーを停止させれば,5人は助かる。ただ,突き落とされてた男はきっと死んでしまうだろう。多数を助けるために少数を犠牲にすることは許されるのか。

この場合,わたしたちの7割は男を突き落とすことはしない。直接的にひとに危害を加えること,これは嫌悪感が強い。システム1で判断し,即座に,つきおとさない判断をするのだろう。一方,トロリー課題というものがある。

トロリー課題

暴走するトロリーがある。前方に5人の作業員。このままでは全員亡くなる。しかし,分岐器を切り替えれば5人は助かる。ただ,切り替えた先にはもう一人の作業員が。

こういう場合,わたしたちのうち7割は切り替える行為を道徳的に正しいとする。多数を助けるために少数を犠牲にすること,やむなしとするわけだ。さきほど,ファットマン課題でした判断とは異なる判断をする。功利主義的考え,理性的といってもいい。システム2で判断していると言える。

このように状況に応じて私たちはある場合にはシステム1である場合にはシステム2で考えるようだ。状況がどれくらい情動を喚起するかによって,システム1が使われるのかシステム2が使われるのかが変わる。

肚で考える

いずれにしても,わたしたちの判断が状況やその状況がどれくらい感情を揺さぶるかによって決まるのなら,わたしたちの考えは状況によって決まっているわけであって,自由意志などないようなものだ。

多くの場合,自由意志はないと言っていいのかもしれない。システム1の動きも,システム2の動きも,いずれの動きも観察して,そして即断せずに,考え直すことができれば,そこには自由意志はあるといってもいいかもしれない。しかし,それは可能なのだろうか。

可能だろう。いわゆる肚で考えるというやつだ。坐禅などをとおして,自分のこころに浮かぶいろいろなことをそのままにしておく技術。坐禅というより,マインドフルネスといったほうがわかりがいいかもしれない。

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