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26年

▼今から26年前,1995年3月20日に,日本のみならず世界中をも震撼させた,化学兵器として使用される毒ガスのサリンを用いた無差別テロ事件が発生しました。オウム真理教による地下鉄サリン事件です。

▼オウム真理教と呼ばれる宗教団体の信者たちが,教祖の指示のもと,都心を走る地下鉄の車内でサリンを散布し,14名の死者と6,300名に及ぶ負傷者を出しました。現在も後遺症に苦しめられている人々が大勢います。オウム真理教は,この前年の1994年6月27日には長野県松本市の住宅街でも化学兵器として使用される毒ガスのサリンを散布し,この時は8名が殺害されました(この時は,警察の杜撰な操作とマスコミのでたらめな報道により,通報者が冤罪で逮捕されるという事態にもなりました)。

▼地下鉄サリン事件が発生した場所は地下鉄丸ノ内線,日比谷線,千代田線の車内で,実行犯たちは液体状のサリンの入ったパックを先を尖らせた傘で突いて破り,そのまま逃亡しました。乗客も,処理にあたった駅員も何が起きたのかわからず,「気分が悪い」「目が見えない」「呼吸ができない」と苦しみ始め,次々と倒れました。

▼救急隊が駆け付け,周囲の病院に搬送されました。その中でも,多くの被害者が出た築地駅に近い聖路加国際病院では,当時の日野原重明院長が「外来診療と手術を中止し,搬送された全ての患者を受け入れる」という決断を下し,640名を受け入れました。

▼その時の様子について,6年前,聖路加国際病院の広報誌で特集が組まれました(以下のリンクからPDFファイルが閲覧できます)。

▼当初,「爆発が起きた」という第一報が入ったため,火傷などの外傷に備えていたそうです。しかし,搬送されてくる患者はみな外傷もなく,原因が不明でしたが,以下のような経緯で,原因が特定され,適切な治療を施すことが可能になったそうです(下記画像は上述した広報誌より)。

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▼ところが,この時,640名の患者に対してPAMの在庫が10名分ほどしかなく,たまたま来院していた医薬品の卸売会社「スズケン」の社員が愛知の本社に大量のPAMを要請するものの,本社にもそれだけの在庫がなく,本社の社員が新幹線に乗り,途中の浜松や静岡で支社のPAMを受け取りながら東京に向かったそうです。また,国内で唯一,有機リン農薬の解毒剤としてPAMを製造していた大阪の住友製薬(2005年に大日本製薬株式会社と合併し,現在は大日本住友製薬株式会社)は,連絡を受けてすぐさまPAMを大阪の工場から東京に空輸する手配を始めます。全日空が協力し,東京に急送され,患者が搬送された病院に運ばれました。

▼上記の経緯については,こちらに詳細が書かれています。

▼日野原院長は,新病棟を設計するにあたって,チャペルやラウンジ,老化にまで酸素吸入などの配管を設置するように指示していました。そのため,搬送されてきた大勢の患者の治療に迅速にあたることができたそうです。

▼医師,看護師,病院スタッフ,救急隊,製薬会社,医薬品販売会社…大勢の人々が一丸となって大勢の命を救うことができました。しかし,治療の甲斐も空しく亡くなられた方,そして今も後遺症に苦しむ大勢の方々がいます。また,化学が悪用されたことで,化学に対して不信の目が向けられることにもなりました。

▼1995年という年は,1月17日に阪神淡路大震災が起こり,その2か月後の3月20日にこの地下鉄サリン事件が起きて,「安全神話」が根底から覆された年でもありました(この地下鉄サリン事件が起きて以来,報道がこの寺家日食になって震災についての報道が下火になってしまった,という話を聞いたこともあります)。また,この当時はまだインターネットはごく一部の人しか使っていなかったのですが(※Nifty-Serveなどのいわゆる「パソコン通信」を利用していた人はかなりいて,震災関連の情報の共有にも役立ったため,パソコンでの通信ネットワークに注目は集まり始めていた),この年の11月23日にWindows 95が発売され,インターネットへの接続が爆発的に増加する契機となった年でもあります。ちなみに,エヴァンゲリオンの放送もこの年でした。当時は「世紀末」で,こうした災害や事件が起きたことで人々の心に暗い影のようなものが落ちていた時代でもありました。1995年は,様々な意味で,日本社会の転機となった年だったのです。


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