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新・空気の研究

「表現者クライテリオン 新・空気の研究 TV・知事・専門家達のコロナ脳」

今回熱い文章を書かれていたのは音楽学者・指揮者の野口剛夫氏。自粛ムード漂う3月末、海外から著名な演奏家を呼んで演奏会を開催。キャンセルの連絡があったものの「飛行機が飛ぶ限りは来てほしい」と説得し、会場も閉鎖、観客のキャンセルもあったが代替会場で開催した。

音楽に携わる私たちは、報酬云々の前に、まず音楽は精神の糧であり、かけがえのないものだという渇望を持っているのか。音楽なんて不要不急だという意見に対し憤り、不当な自粛の圧力を跳ね返す気概を持っているのか。
先の大戦中、ベルリンで度重なる空襲の合間を縫って行われたフルトヴェングラー指揮の演奏会。どんどん瓦礫と化していく美しい街。演奏者も聴衆も、迫る死の危険を感じつつ、これが最後だと思って音楽を体験していただろう。そんな壮絶なことがなくても本来、演奏というのは一度きりのものなのだ。それを録音や放送が何度でも聴けるものにしたが、本質は変わらない。何度でも聴ける音楽なんて、本当の音楽じゃない。でも、今そのことを人々はわからなくなっている。瞬間に賭け、燃焼する人生がもはや失われている。今、きれいな街や家に住みながら、実は心は廃墟になっていることを、はからずも今回のコロナ騒動は明るみに出してしまったのだろうか。
そもそもおかしなことが多すぎる。いったいどうしちゃったんだ人間!と叫びたくなる時がある。アフター・コロナだ、新しい生活様式だ、ともっともらしく言うが、こう言っては何だが馬鹿みたいだ。
破滅を回避したいのなら、やはり人間一人一人がもっと賢くならなければ。絶対に必要なのは、自分の頭で考えるということだ。


先日とDragon Ashのライブを見逃し配信で観た。普段座席のある会場ではライブをしないバンドが、席を前後左右空けて、通常のキャパシティの半分以下で、マスク着用声援禁止という制限の中で開催した。この状況で開催してくれたこと、配信してくれたことは嬉しいけれど、バンドにとって重要な節目となるライブを不本意な形で開催せざるを得なかった悔しさの方が勝ってしまう。

会場で観る2時間半はあっという間だけれど、配信では集中力が持たなくて、正直途中で早送りしてしまう。生徒のIさんが「ライブ中継は綺麗に見え過ぎる」と仰っていたけれど、前にいる客と客の僅かな隙間から見えるステージをしんどい態勢で見るのがライブなのだ。汗の匂い、蒸し風呂みたいなフロア、空調の冷たい風、音で振動するTシャツ。生きている実感や自分の身体が確かにここにあることを確認するためにライブに行くのであって、それは五感すべて使わないとわからない。

新しい旅のエチケット。
新しい生活様式で外食。
変わっていくんだから従うしかない。そんな空気の中思考停止して良いのか?新しいライブハウスなんてろくなもんじゃない。

うんざりする空気の中で考え続けらければならない。

ここで向き合っとかなきゃ そろそろ話にならねえよ
あんたが主役のシナリオなんだぜ
これはあんたが主役のシナリオなんだぜ
CLUSTER BLASTER/BRAHMAN feat. ILL-BOSSTINO (THA BLUE HERB)

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