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境界としてのマスク

お正月に見ることの多い紙垂(しで)。
あんな紙で結界が張れるなんて冷静に考えたら変だと思うけれど、日本人にとっての結界だとか境界は他にも暖簾、障子など儚げであいまいなものが多い。

鳥居も神様の場所と人間の場所を分ける境界であり、不浄なものが入るのを防ぐ結界でもあるけれど、重い鉄の扉があるわけでもなく鍵もない。言ってみればただの赤い棒が立っているだけなのに、太陽を表す赤色の鳥居が邪気を追い払うことに「しておく」。

変な形に切った紙をひらひらさせてなんの意味があるんだ、赤い棒になんの意味があるんだと言うのが野暮なのだ。


「マスクの効果とかはどうでもいいから、マナーなんだから着けて。」

吐く息はマスクの隙間から全部漏れてるし吸う息もマスクの隙間から吸ってるんだから、マスク着けても意味ないんじゃないの、と日本人に聞くのももう野暮なのかもしれない。

マスクの効果に多少疑問はあっても、着けることで邪な風が入ることを防ぎ、内と外を分けることができるということに「しておく」。おしゃれなマスクよりも白い不織布が好まれる。紙垂がカラフルだったら変だろう。白は神聖、清浄の印なのだ。「一見弱々しく無意味そうなモノ」で結界を張り境界を作るのが好きな日本人に、良くも悪くもマスクは合ってしまった。

紙垂や鳥居が儚げであいまいなのは、結界自体を強靭なものにしてしまうと心が油断してしまい結果的に悪いことが起こると考えるからで、あえて儚げなものにすることで気を引き締めているのである。結界は心の中に張る。

マスク自体に効果があると思っている人も、心の底ではマスクの儚さを感じていて、弱々しい紙きれである紙垂の美しさを思い起こしているのでは?と無駄にスケールの大きい妄想をしてしまう。そうでも思わないと「今の日本人のマスクの外せなさ」が理解できないからだ。


私の妄想はさておき、こちらは高校生のマスクが外せない理由。

もし私がマスクをはずして誰かを不快にさせたり、もし罵倒されたりしたら、と考えると、どうしても怖くてはずせなくなります。「マスクで余計なトラブルを避けられるなら」と思ってしまいます。

マスクありの顔に慣れていて、今からはずせと言われても、お互いの顔がわからないのではないかとすら感じるほどなんです。マスクをする生活が身についてしまっているからこそ、もう今からマスクをはずすことに抵抗感を覚えます。

マスクが紙垂になっても良いと思うのなら着けたままで良い。このままではマズいと思うのなら、大人から外しましょう。

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