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明太子の皮と感性

妻の実家に帰省すると、よく朝食にご飯の付け合わせで明太子が出る。

明太子は昔から好きだったのだけど、皮は嫌いで、中身の魚卵だけほじくり出して食べていた。

それが、先日帰省した時は、何がどうという背景もないのだけど、皮ごと普通に食べられるようになっていた。


よく、苦手なものを食べられるようになることは、成長と見なされる。確かに、なんでも食べられた方が、食事の場で面倒が少ないし、誰かに気を遣わせることも減るとは思う。

好きな食べ物が多い方が、限られた食事の中で美味しいと感じる機会を増やすことができて良いという考え方もあるし、極論ではあるけど、栄養源にできる食品が多い方が生き物としては強い、みたいな考え方もあるかもしれない。

いろんな考え方はあるにせよ、「好き嫌いなくなんでも食べられる」というのは、良い資質であり、ポジティブに取られることが多いのではないかと思う。


でも、それって本当にそうなのかな、と思う。

明太子の皮が食べられなかったのはたぶん、ほぐれる魚卵に対して残る皮の感覚が嫌だったとか、魚の皮のような「生き物の皮のなまなましさ」みたいなものが嫌だったとか、そんな感じだった。

子どもが何かの食べ物を好きになれないというのは、そういう「何かの理由で生理的に受け付けない」というケースが多いと思う(アレルギーとかは完全に別だけど)。

それが人間として未熟と捉えるのは簡単だ。でも、そういう見方だけではないと思う。何かが「嫌い」と感じるその感覚は「感性」でもある。オーバーに表現すると「才能」かもしれない。


「嫌い」ではなく「好き」の側の話で考えてみると、例えば電車や車にものすごく執着する子ども、なんて存在は周りにけっこういるのではないだろうか。子どもの頃はそういうのが許容されていても、大人になる段階で「そういうのはいい歳なんだからやめなさい」なんて言われて、好きだったものが好きでなくなってしまう人もいるだろう。それって感性をスポイルしている、機会損失しているのではないか。

「嫌い」も同じことではないかと思うのだ。好きと嫌いは、表裏一体。嫌いなものを嫌いと感じる、言えることは大事な感性なのではないかと。

自分はこれが良いと感じる、これは悪いと感じる、そんな感覚をそれぞれ持ち、その感覚に基づいて表現する。表現すること、そんな感じじゃないかと思う。好きとか嫌いの感覚って、子どもの頃は直感するけれど、歳をとる中で「みんなは良いと言っている」「大人がそうしろと言う」みたいな周りからの圧力で、多数派に合うように変わっていってしまう。

「嫌い」と感じたその感覚をただ無視して、盲目的に迎合させるというのは、もしかしたら、感性を削いでしまうことになるのかもしれない。

食べ物の好き嫌いなんかも、その一つなのでは、と最近思うようになった。


自分も二人の子どもを育てているので、なるべくなんでも食べさせる、という声かけが多くなるし、実際栄養バランスもそれなりに大事ではある。親のそういう努力は、基本的には子どものためのものではあると思う。

だからと言って、とにかく絶対口に入れる、食べさせる、残させない、みたいなスタンスは取りたくないなと、明太子の皮が嫌いだった僕としては、子どもに対して感じている。

嫌いは嫌い、と意思表示して、その感覚を自分のものとして大事にできるように。


・・・まあ、そうはいってもフードロスは嫌なので、食べ残しは親が食べるんですけどね。そんで親がどんどん太る、ってなりがちなんですけどね。それくらいのリスクは、現代においてはまあ、許容したいなと、うん、思います、うん。。。

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