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ノート 大阪万博と日本の前衛芸術家たち 戦後文化の歴史社会学その1(吉田秀雄記念事業財団助成研究の別バージョン)

2017年のFacebookの投稿から。

1970年の大阪万博において芸術家が多く参加していたことはよく知られている(例えば、椹木野衣『戦争と万博』)。ここでは多くの芸術表現が見られた。音楽に関しては、戦後日本を代表する前衛音楽家が多数参加している。

そして万博における芸術家たちの活動を考察する上で、日本政府館に音楽作品を提供し、鉄鋼館のスペースシアターの前段階で構想され結局は頓挫した「大原立体音楽堂」の調査委員でもあった音楽学者で作曲家、柴田南雄(1916-96)がキーパーソンとなる。柴田の著作は理論的なアイデアを与えてくれるだろう。
(柴田は1969年に東京藝術大学を辞職、その後放送大学教授)

つまりそれは、柴田は当時の電子音楽の同伴者であり、また戦後日本の前衛作曲家たちが「日本的なるもの」をいかに作品の中に織り込んでいるのかについて、後に日本音楽を振り返るときに重要な指摘を行なっているからである。そして、何故ここに注目するのかと言えば、この「日本的なるもの」が万博において展示されたものの中で重要な表象であったからである。

この表象は、昨今喧伝される「クールジャパン」のような視覚に訴えるもというよりも、メタファーが織り込まれた入り組んだ構造になっている。そして、この時期はちょうどカナダのメディア文明学者のマーシャル・マクルーハンが「グローバル・ヴィレッジ(地球村)」という概念を提唱し、そこでは聴覚を中心とした部族の時代の復権を予言していたことも記憶されるだろう。武満徹も、テープ・モンタージュの「YEARS OF EAR<What is music?>」という耳をメタファーとした作品を大阪万博において制作しており(但し、音源は現存せず船山隆の記述から知る以外ない)、本論においてキーとなるような表現芸術があったというのも示唆的である。

そもそもこの「日本的なるもの」の表象は、万国博やオリンピックといった国家が関係するイベントのときにはメタファーやシンボルとして登場するものである。また個人に焦点を当ててみても、武満のようにグローバルに活躍した音楽家が世界の「アートワールド」の中で自分のポジションをどのように定めるのかというときの「文化的アイデンティティー」にも関わる問題でもあったのだ。ここで国家と個人が交差する。

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