『限界芸術論と現代文化研究』 草稿
メモ
『限界芸術論と現代文化研究』(ハーベスト社)第2章 大衆文化論と文化研究の問題圏 の草稿
まず言及するのが、鶴見俊輔もインタビューで語り、60年代に編さんした『大衆の時代』にも論考が収録されているアドルノと現代の文化研究の問題圏についてである。
鶴見は2009年に行われたインタビューにおいて、「思想の科学」の活動がフランクフルト学派と相同性があると述べているが、それでは大衆文化の考え方においてどう相同し、異なっているのか。
たとえば、フランクフルト学派をホルクハイマーとともに代表するアドルノは、大衆文化について、「文化産業」という有名な議論を『啓蒙の弁証法』において行っている。文化産業とは何か。それは彼らが亡命中に経験したアメリカ社会の大衆文化のことであるといわれている。
文化産業については、ある論者によって次のようにまとめられている。
「文化産業は商品フェティシズムを強化し、交換価値の支配と国家独占資本主義の優勢を反映する。それは大衆の味覚や好みを形成し、そのために彼らの欲望をニセの欲求にとりこんで、その意識を鋳型にはめてしまう。」
アドルノによれば、大衆は「計算の対象や機械の付属品でしかない。」ということである。
アドルノのテレビ批判については、鶴見が同志社大学教授時代に大学院生も参加して訳した「テレビと大衆文化の諸形態」がある。ここでは、テレビ番組による「お定まり型」ということについて述べられている箇所がある。
つまり、テレビ番組のジャンル(西部劇、コメディなど)によって人々には番組を見る前にその内容が伝わり、またテレビ制作の技術は「お定まり型」を生み出す、そして人々はテレビのきまり文句(cliché)に理解出来てないもの(ununderstandable)を秩序立てているような気になるということである。それが結局は現実に対する洞察力を失うということであった。
このようなアドルノのテレビの理解は彼のポピュラー音楽論においても同じようなタームが用いられている。アドルノは、アメリカ亡命中に「ポピュラー音楽について」というポピュラー音楽(ジャズ)批判を書いている。ここでアドルノが取り上げているのが、ポピュラー音楽(ジャズ)が孕む「規格化(standerdization)」(注)という契機であった。
云々
注 Adorno, ’How to look at television’p,147.なお、鶴見 らの翻訳では「標準化」はstanderdizationであり、これは”On Popular Music”Adorno.(1940=2002).Essay on Music,University of Carifornia Press.でも取り上げられている概念である。
ノート
アドルノの批判理論や大衆文化研究はアメリカの社会学、社会心理学の知見が応用されていることがテクストからわかる。学生時代にアメリカ社会心理学を学んでいたのが活きて来た。
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