見出し画像

「文化、構造、運動体」のためのノート

10年前のFacebookの投稿の一部改稿。
『現代社会理論の変貌』ミネルヴァ書房、2016年収録論考とはバージョン違い。

アルチュセールは、「構造主義」を代表する思想家として知られている。そして、ホールなどによってもそのように分類されている。それは何故か?

   アルチュセールの「構造」による社会理論を考える上で、その方法論における「理論的アンチ・ヒューマニズム」がある。彼は『マルクスのために』に収められた諸論文でその方法論を練り上げていった。

   アルチュセールは社会を説明するときに、人間主義(ヒューマニズム)と呼ばれる具体的な人間を中心にしてそこから社会が展開するというような方法論を取るのではなく、社会をそれ自体を「構造」として捉える観点から出発しようとするのである。これがアルチュセールの採った理論的アンチ・ヒューマニズムという方法論であった。

 もちろんアルチュセールは人間そのものを否定しているわけではなく、人間というような観念(彼によるとブルジョア・イデオロギー)がどのように析出されているのか、その条件を明らかにするためにこのような方法をとるわけである。ここからアルチュセールは、「人間」によらずに「構造」を中心とした社会理論を構想することになる。

   レイモンド・ウィリアムズも『マルクス主義と文学』において、「重層決定」が「歴史的に生きられた経験と実践の本当の複雑性を理解するのに有用である」というように、複合的な社会のなかでの人々の生きられた経験を捉えている。これは、ウィリアムズが「重曹決定」をどのように考えていたのか、議論される必要があるだろう。

 「構造」を中心としたアルチュセールの社会編制について見ていくと、アルチュセールは社会編制(政治的、経済的、イデオロギー的)を、単一な中心が想定される「全体性」というよりもそれを構造化された「複合的全体」として捉えている。アルチュセールのいう「複合的全体」は、その後の文化研究において大きな影響力を持った。

 アルチュセールは、「構造」をどのように捉えているのだろうか。

 アルチュセールによれば、そもそも「原因」という「本質」を措定することが誤りであり、「構造」とは、「原因」さえもが「結果」に既に内在しているというような、構造自体による構造の閉じられた円環の内部での再生産が強調されているのである。
   
 アルチュセールのいう「複合的全体」は、社会の「相対的に自律する」諸審級が「重層的に決定」された形を含み込んでいる。ここでいわれる「重層的決定」とは、社会編制を、上部構造、土台、イデオロギーなどの諸々の要素によって重層的に決定されたものとして構想するものである。そして、このような「重層的決定」は「最終審級における経済の決定」からは「相対的自律性」を獲得している。

 しかし、この複合的全体は、諸審級は「相対的」には自律していても、一つの要素が支配的になっていて、それを決定するある原理によって統一されている。それが「経済」の審級である。これが「最終審級における経済の決定」といわれるものである。社会編制においてどの要素が支配的になるかは、経済的土台が最終審級において決定する。つまり重層的決定というもののそれは相対的にしか自律していないのである。最終的あるいは最終審級においては経済の決定を免れえない。

   もちろん

「最終審級における経済の決定」とは、社会の諸審級の「相対的自律性」においては不在であり「最初の瞬間にせよ、最後の瞬間にせよ、「最終審級」という孤独な時の鐘が鳴ることはけっしてない」

と言われているが、ラクラウのいうように、

「たとえアルチュセールが主張したように、最終審級における経済の決定が決して到来しないものなのだとしても、それはそこらじゅうにあり、彼のディスクールにおいてまさにいくつかの理論的効果を生産しているのである。」

 アルチュセールのいう「最終審級における経済の決定」は、不在の現前として常に前提にされており、そして最終的に決定される構造の再生産による「原因」が内在する「結果」として描かれているのである。

   ボードリヤールは「構造」を消費社会という構造体として記号のシステムについての分析から出発し、その後マクルーハンの概念を使用しながらシステムでの「内破」として捉えている。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?