Vol.4 カンボジアから帰ってきて。
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カンボジア出向記録の最終篇Vol.4ではカンボジア任期中に書けなかったこと、そして帰国したからこそ思うことなどを帰国後に書いた記事になります。
2019年5月の記事
タイトル 「着任して1ヶ月後に」
カンボジアに着任したのは去年3月末の話。
元々あるホテル2棟を買収した為、既存のスタッフをそのまま引き継ぐ方向になった。
当時のスタッフはカンボジア人マネージャー2名と現場スタッフ約30名、そこに日本人マネージャーが2名加わった。
現場のオペレーションを毎日見ているとスタッフ数が圧倒的に多かったという点に気付いた。
他のホテルやレストランを見ても同じ印象を感じた。
恐らく文化的なものなのか日本では考えられないほど店舗のキャパシティやオペレーションに関係なくスタッフを採用している印象だった。
「いや、そんなにスタッフいらないでしょ。」って同じ光景を見たらそう思うはず。
スタッフの解雇
着任して1ヶ月経った頃に「スタッフを解雇する」と言う話になった。
カンボジアは人件費が安いとは言え、業務量とスタッフ数が全く比例していなかった。
ちなみにカンボジアで規定されている最低賃金は$182/月(日本円で月2万円)、日本基準で考えるとかなり安いことがわかる。
とはいえ、人件費が安いからといって一人でも多くの人を採用しようという話でもない。
さて、何人解雇するか。判断材料を何にするかだ。
解雇する人数に関しては人権費の予算内に収めることで決まり、次に判断材料。これが一番難しい。
着任してまだ1ヶ月弱、僕には判断する材料が何もなかったからだ。
もしあったとしても表面上の薄っぺらいものに過ぎない気もした。
もう一人の日本人マネージャーが事前にスタッフ全員と面談し、評価する段取りをとっていてくれてた。誰が仕事をしていて、誰が仕事をしていないか、とてもシンプルでわかりやすい評価。
現場のことは現場のスタッフが一番知っている。
この件については現場の声が最も有益な判断材料になる。
スタッフの他人評価とマネージャー2名の独断の判断と直感で解雇するスタッフを10名ほど選出した。
準備は整った、ここからが正念場だ。
選んだスタッフ一人一人と"解雇"についての面談をしていく。
着任して初めての重過ぎる仕事だった。
「今月末を持って退職してもらいます。」
3日間に渡って、当事者のスタッフ全員に伝えた。
すんなりと鵜呑みにするスタッフもいれば、声を荒げて発狂するスタッフもいた。
職を失うということは収入を失うことになる。声を荒げて発狂するのも当た
り前のレスポンス。
仕事における価値観
カンボジア人の仕事における価値観の一つに”お金”があると思っている。
感覚的ではあるけど給料の金額で仕事を決める人が大多数を占めていると思う。
もちろん、一部には「仕事の意義」を強く感じて働いてる人もいる。
お金以外でも、残業や休みに対しての価値観もまた違う。
カンボジア人はなにより「家族との時間」を大切にする文化がある。
就業時間が終わればすぐに帰宅し家族と過ごす時間をとても大切にしている。
残業という言葉そのものがない、これが普通なのかもしれない。
祝日になればこぞって休みを取る。
これも「家族との時間」を大切にする文化がある故のことだ。
なんて素敵な文化なんだろう。
(ちなみに世界で一番祝日が多いと言われる国がカンボジアである。)
一方、日本では第一に”収入”という人も多いがそれに比例して「仕事のやりがい」で職を決める人も多い印象。
自身のスキルアップの為に、給与は十分ではないが経験に重きを置く人たち。
残業は当たり前で、祝日出勤もごく普通のこと。
昔はお金を稼ぐということに全く興味がなかった。というかお金に対する見方が変わったのかな。
給料で仕事を決めるのではなく、その仕事を通して自分がどう成長できるか、楽しんで仕事ができるか、という点を重要視してきた。
そして必要最低限のお金さえあれば生きていけるとずっと思っていた。
今でもその考えに変わりはなく、必要最低限のお金さえあれば生きてはいけるし、仕事を選ぶ上でも判断基準にブレはない。
しかし、年齢を重ねるごとに経験する幅が広がり見えてくるモノが少しづつ変わっていき、自分の中の世界が格段に広がった。
そして、やりたい事もまた増えた。
今でもお金儲けには全く興味はないけど、やりたいことが増えるとその為に必要なお金は大きくなる。
少し話が逸れてけど、その国々の土地によって様々な仕事に対する価値観があるのと同じで、日本とは大きく異なる文化の違いが多岐に渡る。
それに直接触れる機会があったことは自分にとっても大きな経験と成長を促進する肥料にもなった。
旅をするのと、住むことは全然違う。
2019年5月の記事
タイトル 「種が芽になる」
先日、機会がありサーフィンに連れて行ってもらった時のお話を少し。
肌が黒いこともあり「サーファーですか?」とよく聞かれるけど、見た目とは裏腹に全然経験がない。
朝7時ごろに海に到着。車から降りた時の空気の旨さは別格。
都会に住みながら田舎に訪れるとどれだけ都会の空気が汚れているかということに気付かされる。カンボジアに居た時は鼻毛の成長スピードが早い早い。それだけ空気が汚染されてることが鼻毛の成長スピードで十分にわかった。
やはり、田舎の空気は美味しい。
サーフィンに連れて来てもらったは良いものの板だけを借りてあとは自分で頑張ってと言わんばかりの放置プレイ。波が来たらそれに乗るだけ!的な具合。
手取り足取りを口頭で説明されるより、実践の中で感覚を掴み取っていく方が自分には合っているのでそれはそれでよかった。
男二人で背中を押されてるシーンとか想像すると結構キツイっしょ。
横目で気持ち良さそうに波に乗るとこを見ながら、自分は一向に波に乗れず四苦八苦。
悔しさはあったものの、久しぶりの海はやはり気持ちがいい。
カンボジアに1年も行ってれば色んな人から「何が一番成長した?」という質問をよくされる。その話を。
カンボジアでは常に現地人スタッフと仕事をしていた。コミュニケーションは英語のみ。
自分の英語のスキルはというと中学生レベルぐらいだと思っている。
それはそれは英語でのコミュニケーションはかなりの苦労をした。
自分の語学力が拙いばかりに意思疎通がうまくできなかったり、誤解を生んだり。語学力の無さが招いた出来事に対してムキになって声を荒げることも多々あった。
日本語を話せるカンボジア人を採用しようと思うと、人件費がグンっと上がりその一人の給料に対して日本語が話せないカンボジア人を2〜3名ぐらい採用できるほどの高額なコストがかかる。
日本語を理解できるスタッフがいればその分コミュニケーションは円滑になり無駄なストレスも削減できるが、コストを考えると現実的ではなかった。
語学面以外にも、文化の違いという面でもかなり苦労した。
よく耳にする「遅刻は当たり前」「すぐに休む」海外ではこれがごく普通だと。
まさにそうだった。理由はさておき遅刻は朝飯前、無断欠勤もしばしば。
特に驚愕したのは身内の不幸で休暇を取っていたスタッフが頭と眉毛を全剃りしてきた時だった。
それは腸が煮えくり返りそうになった。
世界各国から来るゲストを迎い入れるホテル、ただでさえ「アジア」という見られ方をしている為、外見の清潔感のある身嗜みはかなり大切な要素だった。
レセプションにスキンヘッドの眉毛なしのスタッフが立っていたら誰でも違和感を抱くと思う。
怒りが先走って理由も聞かずに指摘しようと思ったが、少し冷静になり立ち止まって一応Googleで調べてみた。
「カンボジア 坊主 葬式」と。
これもまた文化の違いだったことを知り、非常にいい経験になった。
カンボジアでは父が亡くなった時に7歳以上の長男が1週間、頭と眉毛を剃りお坊さんになる風習がある。
(頭と眉を剃ることで、父に対しての恩返しという意味があります。)
もし、その出来事の背景を知ろうとせず坊主にしたことだけにフォーカスを当て指摘してたらと思うと自分の心の余裕の無さや相手の背景を理解しようと思う気持ちに欠けていた事に対して未熟に思えた。
心の土俵
誰にでも自分が許容できるキャパシティーがあると思う。
人によって許容量が多い人から少ない人まで様々。
キャパシティー以上の出来事が起きると飽和状態になり、自分に余裕がない状態になる。自分に余裕がない状態に良いことはないですよね。
余裕がないから悪いという話ではないが、余裕がある方がきっと仕事でも生活でも色んな場面で”楽”だと思う。
一歩立ち止まって冷静に物事を考える。
そのミスはミスを犯した本人が悪いかもしれない。しかし、それを指示した人も悪いケースがある。
根本的なコミュニケーション不足が故に、意思疎通が全く取れておれず指示した人の一方通行なんてこともある。
少し大袈裟な表現かもしれないが、全ての原因は自分の中にもある。と考えている。
一方的に相手が悪いと擦りつけず、一歩立ち止まって自分の中に足りてなかった部分はなかったかと問う。
物事には必ず背景がある。
その言葉通りで、必ず何かしらの背景がある。
上記でも書いた、髪と眉を全剃りしたエピソードがそれを物語っている。
感情の変化があまりないと言われるのも、普段から怒りという行為を避けているから。
カンボジアでは怒りが先走って論点とは的外れな話になりがちだった。論点から外れた話はただの説教。そこに決して意味はないし、お互い不快な思いをして終わるだけで生産性がない。ただの自己のストレス発散でしかない。
冷静に戻った時、自分に残るのはスタッフに対して申し訳ない気持ちだけ。
これは人から言われて成長できる類ではなく、自分自身がその事実に気付き、そして弱さに向き合い、自身の原体験の中でしか成長できない類だと、カンボジアでの経験を経て強く思えるようになった。
今では多少のことでは動じないし、あらゆる角度から冷静に物事を見れると自負している。
それもカンボジアで働き暮らした経験と、今までとは異なる環境下の中に飛び込んだことが種となり、自分に足りなかった部分が大きく成長し、それが芽になった。
花を咲かせるまで、まだ道は長い。
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