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「覚悟」の濃淡

本試験が終わり、各予備校の検証や講評、受験生フォロー関連の各種イベントも一段落しつつある。祭りの後の喧騒が徐々に遠のいて日常に戻っていくように。或いは、何かしらの炎上騒ぎが、世間の耳目を集められなくなって収束していくかの如く。

炎上。今回の本試験についてもある種の炎上現象が起きた。いや、まだ続いているかもしれないが、もうまともに追う気がなく現状については把握していない。
言わずと知れた、第3欄第4枠のアレだ。私も悩みに悩んで結論を出したのは本試験振り返り記録の中で書いたとおりである。

予備校によって、いや講師の間でも見解が割れ、それについて受験生が論争(と呼べる程のものかどうかは置くとして)を繰り広げ、中には講師の方々に直接ではないにせよ文句を投げつけ、あるいは罵るなどという所業をも見かけた。
私はツイッターでは議論しない。ツイッターは言わば内心の発露たる単独行為の場だ。掃き溜めと言っても良い。第一、あんな文字数では言いたいこともまともに言えるわけがないだろう。誤解を招いてさらに炎上するのは目に見えているのに。不毛過ぎる。

今回のあの出題については、確かに試験委員に対しては文句の一つも言いたい気持ちはよくわかる。私もこれまで毎年の振り返り記録の中での恒例行事として散々試験委員の方々を罵倒してきた。むろん名誉毀損や侮辱罪には至らないであろう程度に。それについては認める。
しかしそれは、文句を言っても仕方ないという諦めの上に成り立っている独り言であり、ある意味「ネタ」でしかない。受験案内や試験問題の表紙に書いてなかったっけ?試験について一切、文句は受け付けませんと。それを理解し納得した上で皆あのク●試験を受験しているんじゃないのか?

しかし試験委員はともかく、予備校の先生方に文句を言うのはお門違いも甚だしい。自分がかつて塾生だったからというわけではないけれど、カネを払った講義の中でもない、無料で公開している解説講座やこのnoteなどを通じて順位変更や順位放棄その他の意義や立法経緯などについて解説してくれているのを労せずして手に入れておきながら、自分の考えと違うからといって因縁をつけるのはどう考えてもまともな社会人、ましてや法律を学ぶ人間のすることではない。

確かに何でもかんでもタダでもらえる世の中だ。後でも触れるが、予備校もこの頃はツイッターやYouTubeでいろいろとタダで情報発信してくれる。
それにすっかり慣れてしまって、有り難みも感じなくなりがちではあるが、立ち止まって考えてみれば、そもそも情報というものは元々タダではないはずだ。
予備校が出している情報の中には、もちろん向こうも商売だから申込みの誘引たる宣伝のためのものもある。しかし、今回受験生たちが文句を言っている抵当権についての解説などは純然たる学問の話だ。諸先輩方が数々の議論を重ねて積み上げてきた法律効果についての話であり、塾生だったことがある私も恥ずかしながらあまりきちんと理解していなかった。

だからこそ、今回の件は大いに勉強になった。別に先生方の仰ることは何でも有難がって鵜呑みにするべきだなどと言うつもりはないが、自分が学習してきたことと異なる見解だとしたら、そういう考え方もあるんだと知ることで自分の視野が広がったことに対してもう少し敬意を払っても良いのではないか。(貧乏性なので何度も言うが)それも無料で。
そもそも、合格して自分が司法書士になってからのことを考えてみたらどうか。自分が必死に勉強して手に入れた法律や登記についての知識を、タダでお客様にあげたいと思うか?
実務においてはその見解は云々といった意見も見たように思うが、そもそもこの試験にはすべからく実務が反映されているかと言えばそんなことはない。あくまで試験は試験だし、実務に携わる人間に必ずしも有利というわけでもないらしいことには何年か受験してみれば察しがつく。

今回のことで勉強になったと思うことはもう一つある。予備校は、受験生にとって大いに役立つ存在ではあれどやはり限界があるということだ。
本試験は、常に予備校の予想の斜め上を突いてくる。まともな先生であれば、本試験問題は予備校の答練や模試とは全く違います、と予め断りを入れる。
予備校は、毎年繰り出される本試験の変異型を分析し対策用のワクチンを作って受験生たちに配布する。しかし次のシーズンになると…あまり例えが良くない。
とにかく、本試験とはそういうものだ。過去問は、役に立つのは確かだが「まんま」では出題されない。択一と同じく記述も焼き直しの繰り返しだが、択一より記述の方が当然焼き直し方のバリエーションが多い。テキが今年どんなスタイルで来るのかは、予備校もディテールまではほぼ予測できない。今年パリコレ予想通りだったね、となると次の年からはもう誰も観に行かないだろう。それと同じだ。同じなワケあるかい。

だから、予備校頼みでは限界があるのだけれど、かと言って予備校無しで勉強するのは厳しい。大半の受験生は予備校で訓練を積むからそういう猛者たちと戦うということを意味するし、仮に専門書を山積みにして勉強し今回の第3欄第4枠に出題者の意図した答えを正しく書いてマルをもらえたとしても、それで合格できる保証なんかあるわけない。受験生たち全体の出来によって配点は上下する(と考えられている)からだ。おそらく採点する際にあの第4枠の配点はそう高くしないだろう。もしかしたら、存在すら無かったことにされるかもしれない。あの伝説の0点事件の部分的再来となる予感もする。知らんけど。私の予感なんか信用すなよ。誰がするか。

それはともかく、他の受験生が誰も知らないことを自分だけ知ってて書けたからといって有利にはならないということだ。択一も然り。
じゃあどうするかと言えば、やっぱり他の受験生たちが解ける問題はカバーして、隙あらばそのちょっと上を狙い、残りは博打を打つしかない。あるいは、出題者の意図を読む、究極には「空気を読んで」二択を決めるしかないのだ。

そういう、最後は問題文じゃなく空気を読まないといけないような狂った試験と知ってて、みんな大切なおカネや家族や旅行やゲームやぬいぐるみや朝サウナや朝ドラを犠牲にして毎年挑んでるんだろう、もっと賢くなれよ。私も含めてだけど。
受験生に限ったことではないけれど、せっかくの能力と正義感を、ネット上で言いたい放題暴言を撒き散らしたり他人を口撃したりしてのし歩くバカと喧嘩することでムダ遣いするべきじゃない。バカと喧嘩すると傍目にはどっちがバカか分からないから損だという戒めを回覧板で配りたいくらいだ。




さて、怒りんぼのO型ではあるけれどいつまでも怒っていては一向に話が進まない。
今年もLECの記述再現答案添削サービスに申し込んで答案を書き返送した。

昨日、採点結果が出た。

不登法 18点
商登法 23点

思ったより厳しめだなという印象ではあるが、実際の採点ではさらに低くなることも覚悟している。不登法のアレがナニの方がもし正解だったらアノ枠も一つ飛ぶ。まぁどうせ雛形間違ってるからもう別にええけど。

添削の点数がある程度の参考になるにはしても、
去年は
その前の年は
さらに

傾斜配点、さらには再現の誤差があると考えて数点程度差し引く。
マークミスがないとしての択一183点に足すと


…と書きかけて、急にアホらしくなってしまった。過去の点数を引っ張って来ようと思って空けておいたのだけどそれも面倒になり止めてしまった。関心がある方は過去記事を探していただければと思う。申し訳ない。

決して投げやりになったわけではない。開き直ったといった方が良いだろう。
それは、以下の理由による。
例によって、長くなりそうだ。何とここからが本題だ。さぞかしビックリなさったでしょう、何しろ自分でもビックリしている。
今年の私の「覚悟」についての話だ。
興味をもって読んでくださる方にも、相応の覚悟を伏してお願い申し上げる。





もう、結果に関わらず、そして合格不合格の発表を待たずして、私は今年の試験には「負けなかった」宣言をしたいと思う。
日本国憲法前文風に言えば、並み居る強者受験生たちの中において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。

勝利宣言までは今の時点ではできる筈もない。そもそも、勝ったと言えるような点数は取れてもいないし、どちらにしてもあの5時間、特に午後の3時間は死闘を繰り広げ満身創痍となったことは確か。
けれど、ズタズタにやられながらも最後まで相手を組み伏せようとリングに立ち続けたという自負はある。
今年は、必ずそういう戦いをするのだという覚悟があったから。

去年の合格(不合格)発表後、無様な負け方に鼻をへし折られ捲土重来を誓ったことは既に書いた。
その後、どんな勉強を続けて来たかも覚書程度には記録してきた。

相談に乗ってくださった根本先生は、私だけではなく同じように総合落ちした受験生たちに、公開の場で「一切の反省はせず同じことをやれ」という力強いメッセージを発信されていた。

それに乗っかって勉強方針を立てることにした私はしかし、一方では、意識の上ではもう少し何か前年を超えるものが必要だと感じていた。それがつまり「覚悟」なのではないかと。


伊藤塾生時代に、ある合格者の言葉が紹介されていた。

「合格する覚悟を決める」

合格する覚悟って何だろう。
それから毎年、その意味を考え続けてきた。
そして、自分なりにその覚悟を持ち続けてきたつもりだが、今年はそれをより強く意識しようと考えた。


まず勉強の方針。
択一についてはベースはほぼ前年通りでいくとして、答練は取らなくていいと言われたので取らず、代わりに記述対策はこれまで一度も受講したことのないTACの姫野先生の講座の受講を決めた。

それまで自分の中で何となく、択一も記述も同じ予備校の講座をコース受講するという決め事みたいなものがあり、片やインプット講座を取らず前の年のテキストで自学(独学、という言葉を使うことにはやや抵抗がある)、片や違う予備校の単一講座を受講、というスタイルだけでかなりの冒険だった。

それに、予備校講師の間には当然ながらそれぞれ方針の違いもあり、他の講師の教え方を否定する趣旨の発言等もみられた。遠慮なく物を仰る方なので受験生によっては反感を覚える向きも少なくないようだ。しかし私はあえて記述に関してはこの先生に付いて行くことを決めた。
一人に付いていくなら、一方へは付いていくべきではないのだろうか、とも思ったりもしたが、自分にとって何が一番大事かと考え直した。

○○先生にお礼を言うために合格したいんじゃないし、○○予備校の広告塔になるために合格したいわけでもない。
非難を承知で言えば、予備校も講師も講座も、自分が受かるためのツールに過ぎない。

利用できる部分はとことん利用する。何のために高い講座料を払っているんだ。
使ってない予備校の情報も、自分の足りない部分を埋めてくれそうなら遠慮なく頂戴する。講座や教材自体はあまり気に入らなくてもそこは関係ない。つまみ食いでもがめつくても何でも構わない。
裏切り者という視線を向けられていると感じることもあった。自意識過剰かもしれないが。
以前、毎年のように講座や予備校を変えるべきではないという趣旨の考えを書いたことがある。とことんやってみないうちに変えるのはもったいないという意味では今もその考えは変わらないが、択一も記述も足踏み状態を打開するためには、ある程度方針を見直すことも必要だと思った。
自他共に認める頑固な性格だが、人様の意見も聞いてみることにしよう。もう変な所でこだわっている場合ではないし、いい加減に自分でペースを考え構成を組み立てて勉強しても大丈夫だろう、いや、やるべきだと割り切って覚悟を決めた。


そして、勉強のリスタートが10月になってからというのも私史上では初めてのこと。休んだこと自体には全く後悔はなかったけれど、他の受験生と比べて既に出遅れていることは事実だ。
巻き返すには、時間が必要だ。如何にして捻出しようか。

睡眠や食事の時間を削るという選択肢は元よりなかった。健康を損ねてまで勉強するつもりはない。もう無理がきかない年齢、そして自分が体調を崩して夫や親たちに負担をかけさせるわけにはいかない。
この試験、そして資格は、人生を賭ける価値はあるとは思うが、命まで賭けるつもりはない。自分の中で、その線引きは決めていた。

そうしたことを考えるうち自然と実行に移したのが、スマホを見る時間を減らすということだった。
中でも、2018年から利用しているツイッターの受験アカウントを、年明けから約2か月ほぼログアウト状態で勉強に集中した(もちろん家事その他に費やす時間は別として)。

日に1〜2回程度、勉強の傍ら頭に浮かんでくる小ネタを披露したり、予備校や他の受験生の動向から情報のみならずやる気をも得たりとツイッターは受験生活には欠かせないツールではあるが、遮断してみるとその分思いの外時間が生まれるという効果を実感でき、ある時期、ある期間はそうすることがむしろ必要だと感じた。
いわゆる承認欲求というやつは、何も発信しなければ生じることもない。長い時間遠ざかっていれば、脳がスマホを追いかけることもなくなる。

呟かないこと。「今日からツイッター止めます」とも何とも言わず、ふいに長期の休みに入ること。それはそのまま、不在による決意表明だと受け取ってもらおう。呼吸と同等の生活リズムの一部だったツイッターから一時的にせよ離れることと引き換えに、私は今年合格を手に入れるつもりなんだ、それが私の覚悟なんだと。

3月以降も、数日おきに浮上して一日数分程度覗くだけにするなど、極力時間を費やさないようにした。
どうせ、合格したら消えるつもりのアカウントだ。未練なく成仏させられるシミュレーションもこれで実施できた。


そうして、勉強を続けて直前期が来た。
今年の直前期ほど、切羽詰まってあがいたことはないように思う。
まず、勉強の遅れ。時間がないわりにインプットを丁寧過ぎるほどやった。六法なテキストへのマーキング、日々の勉強記録(スタプラ)手帳へのメモ、インデックス貼りなども怠らなかった。
まだまだ時間はあるし、前々回書いたように択一対策で手を抜くつもりはなかったからだ。
去年コケた理由が主に商業の記述だったにせよ、今年は記述偏重でいこうなどとは考えなかった。そうやって毎年交互に択一と記述で足切りの堂々巡りに陥るという怪談はよく聞くところである。

しかしそうこうしていると、春になってから身近な人たちが次々病気ケガに見舞われた。
実母と叔父が立て続けに謎の…コで始まるアレと思しき「風邪のような」症状を発した。暫くして義母が農作業中に背中を圧迫骨折。
続いて夫が睡眠時無呼吸症候群と診断され治療を始めることになった。

いずれも、幸い大事には至らなかったが少なからず生活に影響は出た。病院への同行などの支えは要ったし、心配であまり眠れない日も続いた。
その中で、どうにか日に3〜4時間程度の勉強、択一記述のペース配分を乱さない勉強をすることには集中しようと頑張った。

これもある合格者の体験談で読んだ、ポモドーロテクニックという時間管理術をなるべく実践した。
家事の合間、というか、家事をしながら勉強もした。ジャガイモの皮を剥きながら解説講義を聴き、畑の草むしりをしながら元確事由を諳んじた。
思い詰めて精神が崩壊しない程度の必死さ、本試験前になって不調をきたさない程度の自分にとってはギリギリの脳の酷使加減を以て日々を過ごした。
口内炎はやはり多発し時には舌の先にもできたし、夫がもう勉強は控えろというくらい髪の毛は抜け落ちたけれど。
その程度で何だ、と思われるかもしれない。しかし私には「勉強し過ぎない」のが一貫した最強の戦略だった。限界を超えたりは決してしない。マラソンと同じだ。

それでもやはり、と言うか案の定、当初の予定通りには事は運ばなかった。
前年のをそのまま使った過去問集も、結局今年もまた最後まで終わらず、記述対策が大幅に遅れたのは試験振り返りの中で既に書いたとおりである。

プレ模試では調子良かった模試も、5月以降の公開模試では思ったほどの成績が出せず焦りも生じた。
こんなはずじゃなかった。午前も午後も常に30問以上、いや落として1問か2問というぶっちぎりの成績をキープするつもりだったのに。

もしかしたら今年もダメなんじゃないか。記述で枠ズレしてしまうんじゃないか。本試験の場で時間が全然足りないとか、見たこともない変な計算問題に苦しめられるといった悪夢も何度か見た。
弱気になった時、ふと、この一年だけではない、これまで費やしてきた9年間を思った。合わせて10年分の覚悟を、今年に濃縮すればいいじゃないか。

サボった時も確かにあったけど、こうして続けてきたじゃないか。合格したいという気持ち、そしてそう思ってきた期間では、誰にも負けない。

どうせ毎年本試験を受験するのだからと、これまでわざわざ受験することのなかった会場模試を今年は高松へ受けにも行った。合格のために、できることはやろう。特別な思いを行動に移すことで、運を味方につけてやろうと思った。

その模試でどんなに成績のいい受験生が他に居たとしても、自分の方が上だ。とにかく自分が一番なんだ。
大丈夫、刀は錆びてなんかない。誰よりも手入れしてきたんだ、ここまで。

そして、本試験会場に乗り込み、戦った。この会場で自分がトップだという自信と、ベテラン受験生たるしたたかさを無理矢理ながらも携えて。
結果としては択一は、午前午後とも目標の点数までは取れなかったし、記述もミスは多かった。トータルで自分より点数がいい人間はどうせ何百人もいるんだろうが、そんなことはどうでもいい。自分の思考過程、戦いぶりは、他の誰よりも素晴らしかった。平常心を保てたかどうかはわからないが、最後まで一度たりとも心を折られたりしなかった。

択一も記述も、悩むべき所で悩んだ。結果的に判断が間違っていた所もあるかもしれないけれど、蛭町先生が仰るように、試験委員の問いに対して、自分はこう考えるから答えはこうなるんだという返信を、時には虚勢混じりであれど自信満々に書き連ね、叩きつけてやった。
見たこともない形式に浮き足立ちそうになりながらも、自らを奮い立たせて本試験の首根っこに噛み付いてやったのだ。去年みたいに、知らない間に大腿骨あたりに致命傷を負うようなことは…たぶんしてない。

時間が足りなかったのはアタシの能力が低いからじゃない。問題の分量と制限時間とのバランスが狂っているからだ。まともな試験じゃないからだ。ずっと前から知ってることだけど。
まともに判断しても全部はこなせないのはアタシのせいじゃない。優先順位を瞬時に考え、捨てるべき肢、捨てるべき欄は潔く捨てた。それのどこが悪い。



このアタシを合格させないで、いったい誰を合格させるんだ。



これから秋まで、勝手にそう思うことにする。
内心の自由は保障されているのだ、この国では。今のところまだ。

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