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試験と法改正~「中村家の一族」 最終話

登記が済んで日が暮れて


どうやら大丈夫だったようだ。
法務朝男は、大きく息を吐いてミネラルウォーターの残りを飲み干した。
季節は梅雨の候、少し蒸し暑さを感じる時期に差しかかっていた。
中村一家と石川洋平から依頼を受けた登記申請が全て無事に受理されたとの知らせを受け、安堵しながら朝男は関連の書類をファイリングするためまとめ始めた。

中村家の遺産分割の翌月、あの名東区の土地の根抵当権…差押えにより元本が確定していた根抵当権は、債務者である中村商事株式会社からの被担保債権全額の弁済により消滅した。
そして、債権者であるみの銀行を合併により引き継いだいなば銀行からも登記申請代理の依頼を受けていたため、その抹消登記も朝男が申請した。

聞けば、合併を機にひとまずいなば銀行との取引を終了することにしたのだという。
「義兄の紹介で、別の銀行から好条件で融資など受けられることになりまして」
大介は晴れやかな顔を朝男に向けてそう告げた。
「それと、義兄の方で保証人にもなってくれると言うので差し当たり物上保証も必要ではなくなりました」
「そうでしたか…確かお兄様は瀬戸焼に関する事業を手がけていらっしゃいましたね」
件の土地は、名古屋市の東に位置する瀬戸市とのちょうど中間辺りにある。
洋平にとっては将来何かしらの拠点としての利用価値があの土地にはあるのかもしれない。
その洋平から、別件での相談が持ち込まれたのは登記申請の数日前だった。


「委任の終了」が意味するもの


「この土地なんですが…」
まごころ法務事務所を一人で訪れた洋平が法務朝男に提示した一枚の紙は、ある土地の登記事項証明書のコピーだった。
「甲区3番の所有権移転で名義が移っているのは、去年他界した私の父なんです」
一時は自分で登記をしようと思っていたぐらいであるから、洋平は登記記録の読み取りについても多少の知識を持っている口ぶりで説明した。
この登記記録も、ネットで調べた結果辿り着いた「登記情報提供サービス」を利用して入手したものだった。
「父の名義で登記されているということは、父が亡くなった以上は私の名義にしないといけないということですよね?他に相続人がいない以上は」
義理の父の相続について、妻一家が当事者となった登記の一連の話をこの一年傍で見聞きしてきただけに、自分についても同様の手続きが必要になるのだろうという思いがあったのは当然である。
しかし、洋平の期待に反して法務朝男の表情はどこか悩ましげで、登記記録の一点を見つめていた。

「岐阜はお父上には何かのご縁ある土地だったのでしょうか」
少しの間を置いて、法務朝男は洋平に向き直った。
「祖父の代までは一族が岐阜に居たようです」
洋平は答えた。
「そうですか…拝見しましたところ、こちらの土地はお父上の利夫さま個人の所有には属しない可能性があります。理由は、こちらの登記記録の甲区3番の原因という箇所にあります」
そこには、所有権移転の原因として「委任の終了」との記載があった。
朝男は洋平に、この登記原因の場合、この土地は「権利能力なき社団」の所有である可能性があると説明した。
「例えば町内会だとか、PTAだとかいう団体がそれに当たります」
「そういえば…」
洋平は、父が祖父以前の代からの地縁である岐阜の地で何らかの役を受け持っていた可能性があるとの考えを朝男に語った。
「その辺りはまた親戚にでも訊ねてみます」
そして朝男に、やっぱり先生に相談して良かった、と笑顔を向け、丁重に例を述べながら帰って行った。

「権利能力なき社団か…」
事務所に一人となった朝男は、受験時代に嫌でも記憶に刻み込まれたフレーズを再び口に出した。択一ではちょくちょく出題されて、むろんどのテキストにも必ず載っていた団体の形式だが、実務で目にするのは初めてだった。
そういえば、今勉強している改正関連の本によれば、近く施行される相続土地国家帰属法により、そうした地域に基盤を持つ団体が所有者不明土地などの受け皿になる可能性も出て来るな、と朝男はふと思った。(※)


エピローグ


「やっぱりめめちゃん人気はすごいなぁ」
大介はスマホに目をやってため息をついた。
司法書士に依頼していた登記が完了し、新しい住まいでの暮らしも落ち着いてきた大介は、以前より金魚のために割ける時間が増えてきていた。
最近は、愛魚の写真を撮ることも、ネットにアップすることも多くなってきて、ツイッターも始めていた。
そこで見かけるようになったのが、あるアカウントによる「めめちゃん」についての投稿だった。
赤黒まだら模様で尾鰭が蝶のように華麗なキャリコ金魚のめめちゃんは、大介から見ても魅惑的で、多くの金魚ファンから人気を得ていた。
「どんな人が飼ってるのかなぁ」
自分の金魚が一番可愛いと思いながらも、めめちゃんのずば抜けた人気がちょっと羨ましくもある大介だった。

「へっくしょん」
仕事が終わり、自宅に帰ってめめちゃんの世話に勤しむ法務朝男は、大きなくしゃみで危うくエサの容器を取り落としそうになった。
早くも夏風邪かな?
そういえば、そろそろ今年もあの季節がやってくるな… 朝男はまたも受験生だった頃のことを思い出した。
もしかして、自分が手がけた今回の登記が試験の題材になったりして。
まさか、とそんな考えを頭から振り払い、めめちゃんが最も美しく映える角度を探すうち、夜は更けていくのだった。

(完)


※ 『所有者不明土地の発生予防・利用管理・解消促進からみる改正民法・不動産登記法』松尾弘/ぎょうせい p.62

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