読書感想文:年森瑛さん「N/A」

※ネタバレを含みます。

今年の文學界新人賞受賞作、年森瑛さんの「N/A」を読んだ感想を書きたいと思います。


女子校に通う、「まどか」という女の子の物語です。まどかは、恋人や友人、家族などといった言葉でカテゴライズされない、「かけがえのない他人」という関係を求めていました。
「かけがえのない他人」とは、まさしく特別な、替えの効かない存在であり、誰々より愛している、とか、誰々より尊敬している、といったような、比較可能なあらゆる評価軸の外にいる、特異点のような存在です。
日常の些細な出来事にも、この人と一緒だから幸せを見出せる、といったような存在です。

まどかは、教育実習生として学校に来ていた「うみ」と、「かけがえのない他人」どうしになれるのではないかという期待から、交際することにします。しかし、うみとの関係は「かけがえのない他人」からはほど遠く、あまりにも「恋人的」であり、まどかはうみとの関係性に疑問を抱いていました。
そんな中、友人の翼沙から、まどかが見たことのない、うみのSNSアカウントを見せられます。そこには、「LGBTカップルとして、世の中の理解の無さと戦いながらも、純愛を育む二人」としての二人が、様々な写真と共に投稿されていました。大勢の、うみのアカウントのフォロワーが、「逆境に立ち向かうLGBT」としての二人を応援しています。

単に「かけがえのない他人」でありたかったまどかにとって、「LGBTカップル」という括りに押し込まれ、大勢から同情や応援の言葉を向けられる状況はおぞましい。これがきっかけでうみとまどかは別れます。

「まどか」という個人を無視して、一方的に押しつけられる「可哀想な人」「辛そうな人」「戦っている人」という像。「偏見の目を向けてはいけない」とか、「否定してはいけない」とか、そんな誰が聞いても正しいような規範に満ちた言葉の数々は、まどかの内面に響きません。
それでもまどかは、「自分にかけられた優しい言葉を無碍にしてはいけない」と、「そういう人」として対話してしまうのです。

小説の終盤、友人である「オジロ」の祖父がコロナに罹ったとメッセージが入ります。オジロに対して、オジロのためだけの言葉をかける。その必要に迫られたとき、結局まどかにはいい言葉が思いつかず、「誰から見ても正しい言葉」を探してしまいます。
最後に結局、「そういう人」という括りを使わないと何の言葉もかけられないことを突きつけられてしまうわけですね。


さて、タイトルの「N/A」ですが、これはよくデータ解析などの分野で出てくるもので、"Not Applicable" → 「該当なし」という意味のものです。
「N/A」は、例えば「0」とは違います。
「0」は、数値という「型」が与えられた上で、一つの数値データとして「0」であるわけですが、「N/A」はそのような「型」すらもない、いわば全くの空白のような状態ですね。

ここで、ややこじつけ的ですが、「型」をキーワードに読んでみます。

世の中には、色々な型があります。人間関係で言えば、「恋人」「友人」「家族」。小説中に出てくるものだと、「拒食症」「受験生」なんかもそうでしょう。或いは、「男」「女」というのも、一つの型と言えるかもしれません。
しかし、ある型が存在するとき、同時に「その型に該当するための条件」ができてしまいます。(ある輪郭を持った「型」からの、どれだけのブレを許容範囲とするか、その許容範囲の内と外の境界線がちょうど「条件」となるでしょう)。
しばしば「それって付き合ってるって言えるの?」「それって友達って言えるの?」みたいな言葉を耳にすることがありますよね。それは恋人や友人といった型の条件に、自分達が当てはまっているかを確かめたいからでしょう。
LGBTなど、様々なマイノリティを表す言葉ができてくる一方、それらもやはり「型はめ」に過ぎず、そこには「そうであるための条件」が必ず出てしまいます。一度型ができてしまうと、それに対する世間の「このような人たちにはこう接するべき」という規範も固定化してきます。

まどかは、このような「型」へと自身を強制的にはめ込まれることに違和感を感じているのでしょう。
その根底には、自分は他の誰とも違う、一人の「まどか」という人間なのだから、その「個」としての私は、何にもカテゴライズされないのだという意識があるのだと思います。この「一人の人間」が「二人の関係」にそっくり拡張されたのが、「かけがえのない他人」なのでしょう。

とはいえ、この小説は単に、特異で個人的なものが強制的に型にはめられることの苦しさを書いているだけではありません。

先生に酷いことを言われ、顔を伏せて泣いていたと思われた翼沙が、実は鼻血を隠していただけだった。
祖父がコロナに罹ってしまったオジロに、なんと言葉をかけていいか分からなかった。

結局、型としてカテゴライズされない存在としての「まどか」でありたかったまどか自身も、ある種の型を通さないことには碌に世界と関われなかったわけです。

結まるところ、人間は型にはまらない「該当なし」に対して、該当なしにおける「それ自体」を見ることなどできないのでしょう。自分のことなら型とのズレや苦しみもわかるけれど、他人のことはわからない。
それは究極的には、人間が言葉を使っていて、言葉が客観的なものだからなのだと思います。

この小説、型にはめられることの苦しみを描くだけでも成立しそうですが、そこを一歩引いて、「型にはめてしまう視点」を冷静に書いてくれています。
単に一方向から痛みを訴える小説とは違う深みを感じ、大変面白く読みました。

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