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現実を見るということ#211

他人のために、勉強をするのはやめるということです。

2回目の学問バーに行った。
今回はイベントの中身を把握した上での訪問。

社会人大学院は、以前に特集された本を読んだことがきっかけでその存在を知った。この先。自身の学びを伸ばすための一つの選択肢になりえるなと思っていたので、ちょうどいいタイミングだなと思っていた。

登壇者の秋山さんや、参加者の方からお話を聞いたが、社会人大学院に通うメリットとして
「自分の能力を向上させて、今後の人生を生きやすくする」
「様々な立場、世代の方々と知り合えるため、視野が広がる」などが挙げられる。

特に、後者は納得。
人間、年齢を重ねるほど人間関係が固定化される。

社会人大学院に通っている現役の女性の意見として「生徒の中には、会社を上場させた社長もいて、彼らのような経験豊富な人達とディスカッションをしたり、人的ネットワークを築けるのはとても貴重」と言っていた。

これは越境だと思った。

そして同時に、学問バーで二次的に発生するディスカッションに参加をしていて、「彼らに追いつくために勉強をするのはやめよう」と思った瞬間でもあった。

いい意味であきらめた瞬間である。

わたしはこれまで読書を重ねてきたが、心のどこかで「大卒」という肩書の人たちに嫉妬をしていて、「大卒と言えど、卒業後(何なら在学中も)は勉強はしていないのだろう。遊びほうけて自己研鑽を行っていないのだろう」という思いがあった(実際そういう方もたくさんいるでしょう。私の知り合いはそんな感じです)

そういう方に勝ちたいという、「勝ち負け」のモチベーションが読書の源泉になっていた部分も少なからずあった。

これまで学問バーには2度訪れたが、私以外の客含め参加者はみな、そもそも頭の作りが違っているというか、これまでの積み重ねの量が全く違うなと感じた。

例えば、何かある言葉を発した後の、次に選択する言葉の質が圧倒的に高い。そしてそれを連続してつないで、結果的に質の高い文章を紡いでいく。それも自然に。無意識に。

それを「語彙力」とか「知性」というのだと思う。

私が読書を300冊以上しているのは事実だが、発する言葉に関しては土建現場のおっちゃんと何ら変わらない気がしていた。

私自身はそんな自分は全く嫌いではないし、むしろ好きだ。それも含めて自分だと思う。

でも、自分だって、そっち側に行きたいのに、本当は行ける素質があったはずなのに・・でも、どうがんばっても無理だった。見た目チャラチャラしてそうな女の子でさえも、「〇〇学が・・」って言ってものすごく専門的な話をしていて、理路整然と話を組み立てていて正直にすごいなあと思った。

自分の能力に対して、自分だけが幻想を見ていたのかもしれない。
そもそも学問バーなんて、意識の高い人が集まるバーなのでつよつよマンしか来ないバーだ。自分なんかがかなうわけがないのかもしれない。

自分の大学卒業者に対する解像度が甘かったのかもしれない。

どちらにしても「誰かに勝ちたいから」とか「誰かに負けたくないから」っていうモチベーションで駆動するのは、もうやめる。

だって、他人に左右されるからだ。わかっていたけど。
勝てないと分かったらやめるのか? そういう性質のものでもない。そもそも勝つために始めたものでもない。私の読書は陸上や野球ではないし、日本一位になりたかったわけでもない。しっかりと学ぶ理由がある。知らないことを知りたい。

いい意味で現実的になる。これはとても大事なこと。
自分の可能性を信じてあげられるのは自分だけだが、それと同時にしっかり現実を見る必要はある。

東京に来て、というより、いろいろな人に会いいろいろな種類の意見を聞くようになってから、しっかり現実が見られるようになって、本当の自分、本当の現実がようやくみられるようになってきた気がする。まだ少しずつかもしれないけれど。

どこまで行っても自分は自分である。
これからも自分の人生を進めていく。



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