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何故田んぼをやるのか?

八郷留学の田んぼは、ホタルの棲む棚田です。
それもあって、完全無農薬で稲作をしています。
しかし稲作に関してはほぼ素人なので、八郷の農業の先輩たちにアドバイスをいただいたり、時には助けてもらったりして、なんとかお米を作っています。

1年目は、、、
忘れもしないあの屈辱、イノシシに全ての稲をなぎ倒されて、お米を収穫することができませんでした。

無惨に薙ぎ倒された稲

2年目は、収穫できたものの、コナギという水生の雑草が蔓延ってしまったせいで、12kg(0.3反歩)しか採れませんでした。

3年目となる今年は、作付けをもう一枚増やして合計0.5反歩のところ、70kg収穫できました。
相当な進歩です。

籾(籾摺り前)
白米(籾摺り&精米後)


しかし、コナギの被害は相変わらずで、これ以上の収量を目指すには、地道な除草作業以外に何か有効な策を施す必要がありそうです。

ここで、「そこまで収量にこだわる必要があるのか?」という疑問が出るでしょうか。

因みに、八郷留学の田んぼで作ったお米は、地主さんやお世話になった人に少しずつお配りする以外は、全て八郷留学のプログラムで消費してしまいます。
あくまで自給のため、自分たちの暮らしのための稲作です。

販売するわけではなく、あくまでプログラムでの体験用なので、ぶっちゃけた話、収量などなくとも、形だけやればそれでいいとも考えられるかもしれません。

でもそれって、「暮らしを作」っていると言えるのだろうか?
自分の手で暮らしを作ることが、豊かな人生を歩むための第一歩だと標榜する八郷留学が、そんな形だけの "農的暮らしごっこ" をしていていいはずがありません。

一筋縄ではいかない田舎暮らしを、試行錯誤して、その苦労を身をもって体験する。
そうして辿った「ものがわかる」プロセスをこそ、子どもたちに体験させたいのです。

稲刈りのプログラムがひと段落した頃、私は地域の先人たちにアドバイスを求めるべく、二方を訪ねました。
いずれも10年以上無農薬で稲作をして、おだがけをしている無農薬田んぼの先輩です。

3段のおだがけ

一人目は、畑作、稲作、養鶏と総合的に有機的な農畜産業(こういうスタイルのことを有畜複合と言ったりもします)を行う、移住者のSさん。
移住者と言っても、もう移住してから20年以上経っています。

「コナギなんて可愛いもんだよ、2回代かきすればたいていは防除できるからね。
大変なのはその後に出てくる他の雑草だね、頑張って」

なるほど、、
先のことを考えると恐ろしいが、とにかく目の前のコナギを殲滅するには有効な手段のようです。


二人目のYさんも、同じく2回代かきをすることが大変有効だと教えてくれました。

企業の研修施設として田んぼを運営しているYさん

ところで代かきとは、田植え前に田んぼの泥をかき混ぜて、柔らかくする作業のことです。
柔らかくすることで苗の活着を良くするばかりでなく、泥面を平らに均したり、発芽した雑草や発芽前の雑草の種にダメージを与えて、防除する目的もあります。

通常の稲作であれば、田植えの3日前に代かきをします。
なぜ3日前かというと、それ以上前だと、田植え前に新たな雑草が伸びてしまい稲の苗を負かしてしまうし、それより後だと、田植えの時に泥面がテロテロすぎて稲の苗が活着しないからです。

そして今回二方が共通して教えてくれたのが、2回代かきを行うという方法です。
田植えから逆算して17日前に1回目の代かきをします。
それから2週間おいて田植えの3日前となった日に、2回目の代かきをします。
1回目の代かきの後に、あえて時間を置くことで雑草を発芽させ、2回目の代かきでそれらを殲滅するというわけです。

とても理にかなっています。
そしてこれは、決して目から鱗な手段ではありません。

考えてみれば当たり前のことです。
代かきの目的は、雑草にダメージを与えることでもあるわけですから、それを2回3回と繰り返し行えば、当然効果は倍増します。

それを、言われてみなければわからなかったというのは、私もまだまだ田舎暮らしスキルが十分ではないことを思い知らせてくれました。
それと同時に、農が良質な教育資源であることを再認識させてくれました。

ただ慣習に従って「代かきは田植えの3日前にやる」を実行しているだけでは、能がありません。
それではいくら田舎暮らしをしているつもりでも、現代人にありがちな思考停止に陥っていることになります。
ちゃんと実体験をもとに「なぜそれをするのか」を考え理解しながらやっていれば、応用が効いたはずなのです。

農的暮らしには、このように目の前の事象や自分の施したことの結果を観察して、それに対して思考と実行を繰り返す機会が溢れています。

机上で学んでいるだけでは実体験を伴わないので、 "わかったつもり" にしかなれません。
体験を通して本当に "ものがわかる" と、その経験を、あらゆることに応用することができるようになります。

自分で書いていても少し論理が飛躍しているようで、上手く説明しきれませんが、実は今日の記事は、最近読んでいる養老孟司さんの『ものがわかるということ』の論旨と重ね合わせながら書いたつもりです。

自分の中に感覚的にある「農が何故教育資源になるのか」の論理を言語化できるようになるためにも読み進めています。
読了したらもう少し上手く説明できるようになっているでしょうか。

その際はまた実体験と照らし合わせながら、記事を書こうと思います。

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