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ニートと読む『寝そべり主義者宣言』②

それでは、今回は第2章の前半を読んでいこう。
前回 → ニートと読む『寝そべり主義者宣言』①
 

■ 第2章:寝そべり主義の「同行者」(前半)

しかし、統一された寝そべり主義が存在すると考えてはならない。一人目の寝そべり主義者が現れたとき、彼はこれほどの波瀾を巻き起こすとは考えていなかった。

寝そべり主義に対する支持はそのように熱烈であり、脅威を感じている人でさえも、自己がこの理論の支持者であると装わなければならない程であった。これらの人間の中にどうして真の同志がいようか。これら最初に名乗りを上げた人達は、都合よく空論を借りて、自己が全力で這い進むことの助けとしているだけである。これら寝そべり主義の「同行者」に対し、排泄物を彼ら自身の顔に投げ返す以外に、他に方法があるだろうか?

寝そべり主義も一枚岩ではないからな……ということらしい。
ちなみに、「一人目の寝そべり主義者」というのは「駱華忠(ルゥォファジョン)さん」のことであろう()。
  
つまり、寝そべり主義者の中には、実は体制側であるのにも関わらず、寝そべり主義に「擬態」している「偽物」がいるということだ。
そういった「同行者」に対しては、顔にクソを投げ返すしかないと著者は主張しているのである。
 

まず顔を見せたのは、体面の良い寝そべり勝利主義者(躺贏〔とうえい〕主義者)である。豪華な邸宅を出入りし、香車宝馬のごとき高級車を乗り降りする寝そべり貴族は、寝そべり主義とは彼らが従う秩序の優越性をはっきり示していると主張する。しかし、その秩序の中で、彼らよりも先に寝そべることのできる者など誰がいようか?この点だけで、彼らは大きな発言権を占めている。自己の生活をモデルとして、彼らは寝そべりを豊富な物質の基礎の上に建てられた享楽主義であると認定する。より富裕な国であれば、より多くの何もせずぶらぶらしているだけの遊民を養うことができる。したがって、「このような国家で寝そべるということは、根本的に寝そべりにより戦わずして勝ったということである」。逆に理解した方がより正確であろう。「もし寝そべりによる勝利(Lie to Win)が存在しなかったのならば、人々はなぜ寝そべりによる平等(Lie to Equality)を追求し始めたのだろうか?」

寝そべり勝利主義者、というのはつまり裕福なリタイア生活系の人々なのだろう。
そして、「寝そべり主義とは、彼らが従う秩序(中国共産党の支配や資本主義システム)の優位性をはっきり示している」と彼らは主張する。
なぜなら、自分の生活をモデルにすれば、「寝そべりは豊かな物質の上に成り立っている」「国が裕福だからこそ、遊民を養うことができる」であるからだ。
とはいえ、「このような既存のシステムの上で、誰が体制側の勝ち組より先に寝そべることができるだろうか?」と著者(真の寝そべり族)は批判している。
 
最期のくだりは……寝そべり勝利主義者が
「寝そべって豊かな生活をするっていう勝利があるからこそ、みんな平等に寝そべりを求め始めたってことだよね。
でも、その豊かな生活には国の豊かさが必要だよね」
と主張しているということだろうか?
この辺ちょっとムズカシイですね。 

【2023/09/04 補記】
「もし寝そべりによる勝利(Lie to Win)が存在しなかったのならば、人々はなぜ寝そべりによる平等(Lie to Equality)を追求し始めたのだろうか?」
について、安眠計画さんから「こうじゃないか?」という意見を頂いたので補記させてもらう。

・豊かな国(=先進国)の上澄み層が「俺たちは働かずして勝っている!」という宣言が、共産主義の原理に二重に違反している(勤労の義務の放棄&不平等)上に、真の寝そべり族からも外れている
→「寝そべり勝利主義者というのは欺瞞である」という批判
 
・豊かに寝そべって勝利宣言する奴らが仮にいなければ、平等の追求もなかった。つまり、働かずして"勝って"いるクソ野郎どもがいるから、おれたちは寝そべっているんだぞ。敵を憎むあまり敵と同じ土俵に上がるなよ、という戒め。

なるほど! こうやって議論できるのも面白い&ありがたい。みなさんも意見があれば、気軽にコメントください。

 

寝そべり勝利主義者にはもう一つ迷惑な性質がある。彼らは「寝そべりの自由」というこの言葉を借りて、流行語を順調に金融商品を売りさばく広告文句へと再包装したのである。この過労の時代に、働かずして得ること(「寝そべりながら稼ぐ」)ことよりも人の目を引くものは、なにかあるだろうか?しかし、寝そべり主義者は彼らに誤った望みを持たせてしまったと感じたに違いない。多すぎる資産に悩み、如何にして価値を保つか考慮するよりも、寝そべり主義者は常に如何にして自己の名の下の債務を回避するかに更に関心を寄せる。過去に、彼らはただ完全に主流な秩序が彼らに任務を与えたとき、彼らは債務が常に前で待っており、返済のために生き、生きていることが一種の負の資産であるかのように感じていた。しかし、彼らは誰に借りがあるのだろうか?彼らが徹底的に寝そべる態度を取ることで、この種の系統的誘拐に対抗するとき、彼らはようやっと活路を見つけたと感じた。すなわち、寝そべり主義者は本当の自由を見つけたのである。

これは「FIREブーム」と似た感じなのだろう。
「寝そべって悠々自適な生活を送ろう」という文句が、金融商品のコマーシャルになってしまっているのであると。
確かに、この過労の時代に「働かずに稼ぐ(不労所得)」より魅力的なものはない。
 
しかし、著者が語るには、真の寝そべり族とは「資産価値の上下を気を取られるのではなく、いかに自分に降りかかる『債務』を回避するかに関心を寄せる」のだという。
国の秩序の中で、国民としての「任務」を与えられたとき、そこには常に「債務」が待っており、その返済のために生きることを余儀なくされる。
例えば、家賃の支払い、納税、奨学金やローンの返済。
そして、それに伴う労働生活ということだろう。
そのような生活は、やがて生きていることそのものが「負の資産」であるようにまで感じてしまう。
 
しかし、ここで考える。
「いったい私たちは何に借りがあるのだろうか?」
寝そべり族は徹底的に寝そべることで、おのれの「生」が資本主義システムに"誘拐"されることに抵抗する。
彼らはそこに活路を見出し、本当の自由を追究するのである。
 

次に着いてくるのは、穏健派寝そべり主義者である。彼らは、まるで何かの機会を逃すのをひどく恐れるかのように、体面の良い人物のかかとを踏むかの如くぴったり後ろに着き、急がしく駆けている。彼らは、今更になって、この世界の変化に気づいていない者などいるのか、と言う。しかし、面の皮の暑い平凡な人物として、彼らは何の局面を左右することを望んでいるのだろうか?彼らにとっては、寝そべり主義の重要な意義は、要するに寝そべることではなく、個人の能力の範囲を超えて事を起こさないことである。言い換えれば、彼らは個々人が社会の中のどこに位置しているかを認識し、勤めて本分を守ることを求めているーー世の中がまだ存在する限り、退いて二度目を求める事ができないものなどあろうか?ーーそれゆえにまた、田園への退却を呼びかける寝そべり主義がある。官僚が非難されたとき、彼らの身辺に寝そべる「急進主義者」の方が、法廷で命令書を持っている法官よりも彼らを怯えさせることを、我々はよく理解できる。このときの彼らの全部の発言は「ご主人様、小生は(召使いのように)適時に立つ権利を求めているにすぎません」というだけである。しかし、この言葉ですら跪いて言うのである。この種の跪き式の凡庸な寝そべり平和(Lie to Peace)主義を、我々はまたどのようにして同じ土俵上の統治哲学と区分することができようか?

穏健派寝そべり主義者は、反体制・アナキズム的でない、権力者に対してペコペコしている人々ということだろうか。
彼らにとって、寝そべり主義の意義とは
「個人の能力の範囲から逸脱しないこと」
「各々が社会の中で自分のポジションを自覚し、その本分を務めること」
なのである。
また、このような穏健派は「田舎暮らし」や「スローライフ」をしようという主張とも相性がいい。
 
穏健派にとって恐ろしいのは、命令書を持つ裁判官より、急進的な寝そべり族(真の寝そべり族)なのである。
だから、穏健派は「ご主人様、私は(召使いのように)適時に立つ権利を求めているだけなのです」と体制側にひざまずくのだ。
とはいえ、このような凡俗な寝そべり平和主義は、人々を統治して支配する思想と何が違うのだろう?……ということである。
 

それでは、第2章前半はここまで。
また、次回の第2章後半でよろしくお願いします。
(おわり)
 

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