それでは、今回は第2章の前半を読んでいこう。
前回 → ニートと読む『寝そべり主義者宣言』①
■ 第2章:寝そべり主義の「同行者」(前半)
寝そべり主義も一枚岩ではないからな……ということらしい。
ちなみに、「一人目の寝そべり主義者」というのは「駱華忠(ルゥォファジョン)さん」のことであろう(※)。
つまり、寝そべり主義者の中には、実は体制側であるのにも関わらず、寝そべり主義に「擬態」している「偽物」がいるということだ。
そういった「同行者」に対しては、顔にクソを投げ返すしかないと著者は主張しているのである。
寝そべり勝利主義者、というのはつまり裕福なリタイア生活系の人々なのだろう。
そして、「寝そべり主義とは、彼らが従う秩序(中国共産党の支配や資本主義システム)の優位性をはっきり示している」と彼らは主張する。
なぜなら、自分の生活をモデルにすれば、「寝そべりは豊かな物質の上に成り立っている」「国が裕福だからこそ、遊民を養うことができる」であるからだ。
とはいえ、「このような既存のシステムの上で、誰が体制側の勝ち組より先に寝そべることができるだろうか?」と著者(真の寝そべり族)は批判している。
最期のくだりは……寝そべり勝利主義者が
「寝そべって豊かな生活をするっていう勝利があるからこそ、みんな平等に寝そべりを求め始めたってことだよね。
でも、その豊かな生活には国の豊かさが必要だよね」
と主張しているということだろうか?
この辺ちょっとムズカシイですね。
これは「FIREブーム」と似た感じなのだろう。
「寝そべって悠々自適な生活を送ろう」という文句が、金融商品のコマーシャルになってしまっているのであると。
確かに、この過労の時代に「働かずに稼ぐ(不労所得)」より魅力的なものはない。
しかし、著者が語るには、真の寝そべり族とは「資産価値の上下を気を取られるのではなく、いかに自分に降りかかる『債務』を回避するかに関心を寄せる」のだという。
国の秩序の中で、国民としての「任務」を与えられたとき、そこには常に「債務」が待っており、その返済のために生きることを余儀なくされる。
例えば、家賃の支払い、納税、奨学金やローンの返済。
そして、それに伴う労働生活ということだろう。
そのような生活は、やがて生きていることそのものが「負の資産」であるようにまで感じてしまう。
しかし、ここで考える。
「いったい私たちは何に借りがあるのだろうか?」
寝そべり族は徹底的に寝そべることで、おのれの「生」が資本主義システムに"誘拐"されることに抵抗する。
彼らはそこに活路を見出し、本当の自由を追究するのである。
穏健派寝そべり主義者は、反体制・アナキズム的でない、権力者に対してペコペコしている人々ということだろうか。
彼らにとって、寝そべり主義の意義とは
「個人の能力の範囲から逸脱しないこと」
「各々が社会の中で自分のポジションを自覚し、その本分を務めること」
なのである。
また、このような穏健派は「田舎暮らし」や「スローライフ」をしようという主張とも相性がいい。
穏健派にとって恐ろしいのは、命令書を持つ裁判官より、急進的な寝そべり族(真の寝そべり族)なのである。
だから、穏健派は「ご主人様、私は(召使いのように)適時に立つ権利を求めているだけなのです」と体制側にひざまずくのだ。
とはいえ、このような凡俗な寝そべり平和主義は、人々を統治して支配する思想と何が違うのだろう?……ということである。
それでは、第2章前半はここまで。
また、次回の第2章後半でよろしくお願いします。
(おわり)