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ニートと読む『寝そべり主義者宣言』①

■ 寝そべり族の登場
2021年4月、中国のSNSにある投稿が行われた。
タイトルは「寝そべりは正義だ」。
この投稿は中国全土で大きく話題を呼び、思想や社会運動に発展するまでに至った。
それが「寝そべり主義(躺平主義)」である。
 
――競争社会から降りて、低欲望に生き、心の健康を重視する。
――最低限の生活を維持することで、資本家の金儲けマシーンになることを拒否する。
――家を買わない、車を買わない、恋愛しない、結婚しない、子供を作らない、消費は低水準。
 
こうした生き方や考え方は、激しい社会競争や過度の長時間労働、急激な土地の高騰に晒されている中国の若者に大きく共感を呼んだ。
 
なお、2023年の現在でも、中国の不況と就職難(それに伴う寝そべり)は続いており、若者の失業率はなんと「46.5%」に達した可能性があると報道されている()。
さらに、実家に住み、家事手伝いをしながら、親からお小遣いを貰って暮らす、「専業子供」の存在も近頃話題になっているそうだ()。
(いちいちネーミングセンスが面白いのはなんなんだ)
 

■ 躺平主義者宣言
さて、そんな寝そべり族であるが、中国でムーブメントが続くにつれて、とある文章が作成されて拡散されたらしい。
それがタイトルの『躺平主義者宣言』である。
(躺平〔タンピン〕とは「横になる」という意味で、「寝そべり」のこと)
 
現在、この文章を読む方法は3つある。
1つ目は、日本の活動家、松本哉氏が販売していたものを手に入れること(現在は在庫切れ)。
2つ目は、真澄氏が翻訳してnoteに掲載したものを読むこと。
3つ目は、原文をweb翻訳にかけて読む方法である。
 
今一番読みやすいのは、やはり真澄氏verを拝読させてもらうことだろう。
また、僕は松本哉氏verの冊子を持っているが、訳文に大きな差は無かったので、今回は真澄氏verを引用させてもらうことにした。
 
この文章は1人で読んでみると、なかなかムズかしい。
訳文の上に、独特の言い回しや用語が多発するからである。
そんな事情もあり、今回は「なに言ってるのかよく分からねーな」という人のために、自分なりに解説をしてみようと思った。
とはいえ、僕もいかんせん不安であるので、もし「これは違うんじゃないか?」「私はこう解釈したけれど」というような箇所があれば、遠慮なく指摘してほしい。
 
それでは、さっそく次のセクションから読んでいこう。
 

■ 第1章:序 大きな拒絶

目の前の物事に首を振り、反吐をつく若者の一部は、既に前に倒れている。彼らは、険悪な生活に倒されたというよりも、ただ生命の本能的な形式に従っただけだ。休憩、睡眠、怪我、病気や死亡と隣合わせの姿勢の中で、何かが新たに始まったり、停滞するわけでもなく、むしろ時間の秩序そのものを拒絶しているのである。

「目の前の物事」や「険悪な生活」というのは、もちろん競争社会や長時間労働社会のことだろう。
そして、それらに対して、「倒された(受動的)」ではなく、主体的に「倒れている(能動的)」のだと主張している。
 
「休憩、睡眠、怪我、病気や死亡と隣合わせの姿勢」というのが、ちょっとよく分かりにくいが、この「隣合わせ」というのは、原文だと「近い」という意味らしい。
だから、「休息のとき、寝てるとき、怪我や病気をしたとき、死体になったときのような姿勢」で「寝そべっている」ということだ。
 
そして、その「寝そべり」で、「何かを新たに始めたり、停滞したりする」のではなく、「時間の秩序そのものを拒絶している」という。
時間――といえば、やはり管理社会・労働社会の象徴としてのそれを指しているのであろう。
時間、もしくは時計のせいで、我々は正確に管理され、曖昧な暮らしの中に生きることが不可能になった。
そういった既存の世界(時計で管理されている世界)で「新たに始める」や「停滞する」を行うのではなく、もっと世界をひっくり返すようなスケールで「拒絶している(=生命の本能的な形式に従っている)」ということだろうか。
 
 

生命を燃料へと転換することを渇望する偉大な時代の呼び声は、かつては意気揚々と前進していたが、現在はまるで耳元を鬱陶しく回る一匹のハエのようである。一つの魔法が失効する時刻であり、また別の魔法が復活する時刻である。

「とにかく働けば豊かになれる」
そういったプロパガンダが幅を利かせた時代が続いてきたものの、今となってはただ耳障りなだけにしか思えなくなってしまった、と。
「別の魔法が復活する」とは、人間本来の暮らしというか「必要なだけ働いたら、後は休息したり、遊んで過ごすのが幸せなのだ」という生活や考え方のことであるのではないか。
例えば、過去の時代の狩猟採取民のような暮らしのことだ。
(ポジティブな面ばかり見て、理想化しすぎるのは良くないかもしれないが)そのような生活を送っていた人々からしてみれば、そもそも「労働と休息」という区別など存在せず、ただ「生の営み」があっただけなのかもしれない。
そのような時代(在り方)のことを「別の魔法」と呼んでいる可能性が考えられる。
 
 

実際、寝そべり主義者(躺平主義者)が目覚めなければ、人々は「正義」というものが存在することを忘れていたであろう。社畜が油を売ることで、剥奪者に自己の失った時間の所有を主張しようと試みるのと同じように、同じ道に沿い、寝そべり主義者は、過去の底なしの借越しに対する補償を要求する。下への賠償では、実践者は個人の需要を圧縮し、最低の消費と最少の労働で継続的に生存できるよう努めることが要求され、上への賠償では、全ての社会が時間と空間の再分配を行うよう要求されることは間違いなく、寝そべることが大多数の人間の実践となる。そして先立って到達するのは前者の寝そべりであることは、明白である。

寝そべり族が現れなければ、人々は「正義≒正しい人間の在り方」を忘れていた、という。
社畜はサボることで自分の時間を取り戻す。
同じように、寝そべり族はサボることで、これまで底なしに労働者から奪われてきたものに対する補償を要求する。
(「奪われてきたもの」とは、尊厳、自由、時間、剰余価値、健康、人間らしさ……などの諸々を指すのだろう)
 
「下への賠償」と「上への賠償」というのは、「個人(自分)に対して行うアプローチ」と「社会に対して行うアプローチ」ということか。
「下(個人へのアプローチ)」では、欲を減らし、最低限の消費と労働で継続的に生存できるよう努める。
一方、「上(社会へのアプローチ)」では、社会に対して時間と空間の再分配を行うように要求する。
大多数の人間にとって、「上」の具体的な実践とは、「寝そべって」抗議を示すことになるだろう、ということだ。

また、ここで「時間と空間の再分配」について個人的に触れてみたい。
我々は週5の8時間労働が当たり前であり、そうしないと基本的に「食っていけない」ようになっているわけであるが、そもそも奪われているのは40時間だけなのだろうか?
仕事の支度をする時間、通勤の時間、週明けの仕事を考える時間、疲れを癒す時間、ストレスを発散する時間……。
そういう時間も含めて考えたら、殆どの時間が「奪われている」と言っても過言ではないはずだ。
 
また、空間――具体的には「土地」であるが――この「土地を所有している」とはなんなのか。
「土地を持っている」なんて、よく考えたら「意味不明」ではないだろうか。
心底から問いたい。「土地を持っている」ってナニ?
ここで、「いやいや、ここに土地の権利書がありますよ」と言う人もいるかもしれないが、それは「紙にインクが染みついたもの」が存在しているだけである。
「土地を所有している」というのは、あくまで「共同幻想」や「神話」でしかないのだ。
こうやって考えてみると、「土地を所有している」などとのたまう人に対して、家賃や借地料を払うことがバカらしくなってこないだろうか。
(そもそも人間は本質的に何かを所有することなどできない、という話もしたいのだが、仏教的になりそうなのでここでは控えておこう)
 
 

特権を維持する自信に欠けた、新旧貴族らが集まりはじめた。このような、疫病と同じく労力を倒し、ワクチンも効かない有害な思考に、彼らが狼狽しない理由はない。しかし、この哲学(寝そべりはとても早く哲学へと成長した)は、若干の現実問題に対する人民の心のを反映した鏡であると承認するよりも、彼らは、これは依然として敵対勢力の仕業だと主張した方がましであるとした。こういうのも無理は無いことだ。なぜなら過去、ここの人々は最も模範的な生産道具であったからだ。滑らかに機器を運転し、一点の声も発さず、機器そのものが虚空であるかのように、いかなる摩擦も産まない、このような社会という工場は、世界にも極少数しか存在しない。人民そのものもまるで虚空であり、そしてこの国家は虚空の中から奇跡的に求められた一種の実在の形式である。

体制側は寝そべり族に狼狽しているようだ。
確かに、武力的な反乱だったら取り押さえるのは簡単かもしれないが、寝ているだけの人をどうやって取り押さえればいいのだろう。
そこで、体制側は「寝そべりは中国を衰退させるために、敵が仕込んだプロパガンダである!」という主張を始めた。
実際は人々の心を映し出しただけであるのに。
 
後半は、これまでの中国労働者の物悲しい従順さを語っている。
世界の工場、それは世界中から安く買い叩かれ、世界中から搾取され続けてきたということに他ならないのだから。
 
 

寝そべり主義者に対する糾弾が始まった。しかし、これらの糾弾は陳腐で蒼白であり、寝そべる人間を叩き起すどころか、頭さえ上げさせられない。寝そべり主義者は怠け者の堕落者と目的のない乞食による烏合の衆であると主張する人間は、少なくとも一度は回答を聞くべきだ。寝そべりは簡単なことで、当然だと思い込んではならない。逆に、寝そべったその瞬間から、寝そべり主義者はこの国家の外部に身を置くことになる。彼らの存在がもうひとつの族群を構成するだけでなく、彼らの寝そべった土地も、これにしたがって、先程までの国家と何の関係もない編外の地となる。もしこのような状態がいかなる妨害も受けることを望まないのなら、いかなる主権や財産権とも無関係であるべきではないだろうか?身体は占有と分配から切り離され、土地は経営と管理とは無縁である。一種の急進的寝そべり主義は、現行秩序に対する大きな拒絶を示している。寝そべり主義者は、体制の再編成に対して無情な嘲弄で応じ、いかなる優遇や貶めに対しても全く無関心である。

寝そべり族に対する糾弾が始まった。
しかし、「ただの怠け者の集まりだ」で済むほど、寝そべり主義ムーブメントは簡単な話ではない。
寝そべりはアナキズム(無政府主義)的な流れも汲んでいるということだ。
「寝そべった瞬間から、寝そべり主義者はこの国家の外部に身を置くことになる」
「彼らの存在がもうひとつの族群を構成する」
「彼らの寝そべった土地も、これにしたがって、先程までの国家と何の関係もない編外の地となる」
すなわち、このような「寝そべり状態」である限り、己の身体とそれに隣接する土地は、権力者による占有・経営・管理とは切り離されたものになるのだ、と。
ラディカルな寝そべり主義者は、現行の秩序を拒絶し、体制側によるコントロールをあざ笑い、いかなる批判にも無関心を貫き通すのである。

世界の全てを90度回すだけで、人々はこの通常の中では語ることのできない真理に気がつく。寝そべりこそが立ち上がることであり、立つことは這うことである。このような客観的存在の隠れた角度は、寝そべり主義者と我が国の国民の間に越えられない障碍をなしている。かつ世界が徹底的に改変される以前は、寝そべり主義者は彼らの態度を変える理由がない。

寝そべる(働かないこと)こそが、体制に対して反旗を翻して立ち上がること。
そして、立つこと(働くこと)こそが、体制に対して這いつくばって屈服することである、と。
(とはいえ、どうすれば働かないことをここまでかっこよく言えるようになるのか。この箇所はいつも笑ってしまう)
 
そして、このような90度の転回(寝そべり)こそが、普通の人々との壁を生み出しているのだが、寝そべり主義者たちは己の態度を変えるつもりはない。
世界の方が90度転回するべきだと主張しているのだ。
 

■ 第1章はおわり
これでとりあえず第1章は終わり。
なかなか濃密で疲れたのではないだろうか。
「ゆるく自分らしく生きよう♪」などといった内容ではなく、政治的な主張が強く前面に出ていることが分かってもらえたはずだ。
 
ちなみに、この文章は全5章である。
残りもぼちぼち更新していきたいと思う。
よろしくお願いします。
(おわり)
 

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