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どうせ社会がメチャクチャになるなら良い方向にメチャクチャにしないか? アンチワーク哲学を推すワケ

先日、ホモ・ネーモ氏のクラウドファンディングプロジェクトを記念して、ネーモ氏やアンチワーク哲学の紹介文を書いた訳だが、読み返してみたところ、イマイチ自分の言いたいことが全て書き切れていなかったように感じたので、続編をここに記載したいと思う。

(未読の方は、まず↑の記事を読んでほしい)

まず要点から述べてしまえば、今後、この国がメチャクチャ(→現在のシステムが維持不可能)になることは免れないと思う。
これは衰退ポルノなどではなく、データを見れば分かる明らかな予測である。

ピラミッドと呼ぶには歪すぎる何か。
現役世代に強いられる負担の増大。
格差の拡大(ジニ係数 → 社会における所得の不平等さを測る指標。0から1で表され、各人の所得が均一で格差が全くない状態を0、たった一人が全ての所得を独占している状態を1とする)。

 
こうした社会の中で、若者が気付くことといえば
『働いたら負け』なんじゃね?
ということである。
格差の拡大。階層の再生産。少子高齢化。止まらない増税。SNSによって可視化される勝ち組/負け組。親ガチャ理論や反出生主義の流行。
「競争」とは、人間の行動力を駆り立てるものであるかもしれないが、それは「勝ち目」があればの話である。
どうあがいても希望が見えない競争(クソゲー)の中では、人は努力することをやめ、ただ無気力に、全てを放棄して生きることを選択する。
 

先日、「あえて非正規を選択する若者が増えている」というニュースが話題になっていたが、このニュースにも現代の若者のトレンドが現れているように思う。
この「あえて非正規」は、これまでの
「私には追いたい夢があるからフリーターを選択する」
「どうしても私は社会に馴染めないからニート的な生き方を選択する」
とは違い
そうするのが一番コスパがいい
どう頑張っても搾取されるだけ
全てがどうでもよくなった
という"普通"の若者の諦観が強く表れているように感じるのだ。
最低限の労働で生活し、"住宅を買わない、車を買わない、恋愛しない、結婚しない、子供を作らない、消費は低水準"という中国の寝そべり族は日本でも有名になったが、この国でも寝そべり族が増加している(していく)のではないか?というのが僕の予想である。
 
(とはいえ、実際なぜこんなにも、せこせこと週5日8時間も働かなくてはならないのだろう?
「もう希望が見えない」と述べてきたものの、中世や近代に比べたら、現代は圧倒的に文明的で豊かな時代になった。
娯楽はインターネットに溢れているし、生きていくだけならば、実家に住みながら最低限のバイトでもしていればいい。
もはや、我々は「人間は働かなければならない。なぜなら人間は働くものだからだ」という教義を、黙って受け入れることはできなくなってしまったのである)

しかし、しかしである。
そういった「家庭や仕事に意味を見出さず、実家でフリーターをし、最低限の労働でただ生きていく」という生活に、ほとんどの人々は、耐えることはできないように思う。
人間は、人生の無意味さ、希望の無さ、自分の影響力(他者による承認)の無さに、耐えられないからだ。
こうしたとき、多くの人物が陥りがちなのが、厭世的でニヒルな思想に傾倒することである。
 
例えば、「この社会はクソ!」だとか「生まれてくることは不幸だ!」だとか、そういったことをツイートする。
そうすると、そのツイートにいいねやリツイートが付く。
そして、その自分の考えが(もしくは同調している思想が)認められること・広まっていくことに、強い喜びを感じるようになる。
(そして、彼/彼女は世界の悪いところばかり目につくようになり、それをわざわざ見出して拡散するという"おしまいスパイラル"に突入していくのだが、それはまた別のお話……)
 
もともと、我々は現実生活の中で、それ(他者による承認や、自分の影響が広まっていく喜び)を行っていたのだろう。
生活の労働の中で他者に認められれば嬉しいし、家庭を築いて子供や孫が増えていくことは喜ばしい。
しかし、そうした欲求が屈折させられた結果、それがインターネットにおいて別の形で発散させられるようになった。
 
ある程度反感を買うことを承知で言うが、僕は「出生主義者」も「反出生主義者」も同じ穴のムジナだと思っている。
反出生主義者は、出生主義者のことを本能に支配された獣のように見下すが、反出生主義者もそのモチベーションの源泉を辿ってみれば、「自分の思想を広めたい」「他者に認められたい」「反出生主義の流布、もしくは人類の滅亡によって、自分の生きた証を遺したい」というだけなのである。
出生主義者はgene(ジーン)を遺したがる野蛮な獣かもしれないが、反出生主義者はmeme(ミーム)を遺したがる野蛮な獣なのだ。

内容が取っ散らかってきたので、一旦整理しよう。
これはホモ・ネーモ氏のアンチワーク哲学を推す記事であった。
そして、その前提として、僕が主張したいことは以下である。
 
・この国がメチャクチャ(現状のシステムが破綻する)になることは免れない
・閉塞感や格差の拡大から全てを諦める若者が増え続けている
・「人間は必ず働かなくてはいけない」という時代ではなくなった
・とはいえ、人間は(労働や家庭による営みで)他者に認められることや、自分の生きた証が遺ることに強い喜びを感じる生き物である
・しかし、他者による承認や将来の希望がない生活だと、その欲求を「ネットで厭世的な思想を拡散する」という捻じれた方法で満たすパターンに陥りがちだ
 
別に、僕は暗い人間やネガティブな人間のことを必要以上に批判したいわけではない。
むしろ、「こんな社会は崩壊してしまえばいい」だとか、「自分以外くだらないヤツ全員死ねよ」だとか、「人間は生まれない方がいい」だとか、そういうことを一度も考えなかった人間の方を軽蔑する。
 
だが、そうした生き方を続けていて、一体何が残るのか?
「いや、何も残らないことが我々の目的なのだ」とあなたは返答するかもしれないが、死の間際に、あなたは本当に自分の人生に納得することができるのか?
それに、実利的な問題から考えてみてもいいかもしれない。
将来的に、増加するニート・寝そべり族、そして、その層から吹き出る世の中への不平不満。
厳しい世の中であっても、一般的に働くことを選んだ人は、「そんな甘ったれたやつら早く死んでもらった方がいい」と、対立・分断が起こり、迫害や事件にまで発展するかもしれない。
 
どうせならば……どうせならば、みんなでハッピーにならないか?
世の中がどうせメチャクチャになるならば、ハッピーな方向に、頭お花畑の方向に変えていかないか?
人間は、どうしても他者と関わらずにはいられないなら、その欲求を良いことに使ってみないか?
自分の考えを広めることに快楽を感じるならば、みんなが幸せになる考えを広めていかないか?
 
僕がこの記事で世に問いかけたいのは、まさに上記のことである。
おそらく、この2020年代が分水嶺だ。
「働きたくない」「若者の限界」「寝そべり族」が今後迫害の対象である"社会悪"(もしくは、自分さえ生きていければいいという安っぽいミーイズムの流行)に転ずるのか、「労働なき世界」というユートピアのきっかけになるのか。
 
社会がメチャクチャになることは避けられない。
それならば、良い方向にメチャクチャにしないか?

 

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