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『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』出版プロジェクト byホモ・ネーモ に寄せて

noteで執筆家(哲学者)として精力的に活動しているホモ・ネーモ氏、彼によるクラウドファンディングプロジェクト、『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』出版プロジェクトが始まった。

今回はこれを記念して、ネーモ氏本人や彼の思想(アンチワーク哲学)、上記のプロジェクトについて、個人的なコメントを述べていきたい。
 

■ ネーモ氏について

まとも書房 代表。
アンチワーク哲学者。
ホモ・ネーモ(何者でもない人間!)。
 
「それはなんなんだ」と、ツッコみ満載のハンドルネームと活動紹介が並ぶ氏であるが、僕が彼と出会ったのは、確か去年の9月ごろである。
僕はニートマガジンというサークルを共同運営しているのだが、ネーモ氏はそのメンバー募集記事を見て、応募のメッセージをくださったのだ。
そして、応募の時点でこんなに尖った記事を用意しているという気合の入りっぷりである。
(内心、とんでもない人物を招き入れてしまったかもしれないと震えたものだ)
 
また、最近では、「冊子版 ニートマガジン vol.1」にも、ネーモ氏による寄稿をいただいた。
こちらではトップバッターを飾っていただいたのだが、これは「週刊少年ジャンプ」で言うなれば、ワンピースのような看板ポジションである。
当たり前の話であるかもしれないが、まず最初に載っているコンテンツが退屈であれば、多くの場合、残りのコンテンツも読んで貰えない。
引き込まれるキャッチー性・内容のオリジナリティ・文章のユニークさ。
そのような魅力を兼ね備えた記事を寄稿してくださったネーモ氏には感謝しかないものだ。
 

■ 「アンチワーク哲学」とは

アンチワーク哲学!
「無職」を名乗るアカウントとして、そしてニート研究者(?)として、非常に興味を惹かれる思想である。
ここでは、ネーモ氏本人が書かれた「超入門 猿でもわかるアンチワーク哲学」から概要や用語を引用してみよう。
 

・アンチワーク哲学とはなにか?
世界80億の人間が、誰も労働しない世界が可能であることを論証し、実現しようとする哲学である。80億総ニート。失業率100%。GDPは0ドル。そんな「労働なき世界」をアンチワーク哲学は目指す。

「超入門 猿でもわかるアンチワーク哲学」

アンチワーク哲学とは、労働なき世界の可能性を論証し、実現しようする哲学のこと!
……とはいえ、おそらく、ほぼ全ての人が
「いやいや、そんなのムリだって(笑)
誰も働かなくなったら、社会はメチャクチャになるよ(笑)」
と、一笑に付すだろう。
 
だが、ネーモ氏は、労働が無くなったとしても、マッドマックスや北斗の拳のような世紀末社会ではなく、文明的な社会を維持することが可能であると説くのである。
いったいどういうことか。
順を追って解読してみよう。
 
まず、アンチワーク哲学では「労働」をこのように定義する。

アンチワーク哲学にとって労働とは「他者から強制される不愉快な営み」を意味する。

強制されず、不愉快でないなら、それは労働ではないというのがアンチワーク哲学の主張である。

「超入門 猿でもわかるアンチワーク哲学」

「労働とは、他者から強制される不愉快な営み」
この定義に関して、僕はとてもしっくり来たのだが、あなたはどうだろうか。
例えば、僕はこの記事をPCの前に座り込み、黙々と数千字も打ち込み続けているが、別に何も苦痛ではない。
なぜなら、自分の意志で、自発的に、自由に書いているからである。
例えるならば、子供が意味もなく公園を駆け巡るような"遊び"のようなものだ。
だが、これがもし、ネーモ氏にお金をチラつかされ、「○○日の○○時までに○○字の俺を褒めたたえる記事を書け!」と"命令"されていたのならばどうだろう。
それは途端に苦痛を伴う"労働"と化すはずだ。
 
ネーモ氏の唱える「労働なき世界」とは、こうした命令・強制による労働が無くなった世界のことである。
そこでは、人々が自発的に自分の意志で働き――いや、"遊び"――文化的な社会が成立するというわけだ。
 
とはいえ、このような言説を聞いて、このように考える人もいるだろう。
「いやいや、労働の義務や強制力が無くなったら、全員がダラダラ寝そべって過ごすニートになるだけだって(笑)」というものだ。
確かに、「労働なき世界」と聞いて、先行するのはそのようなイメージである。
だが、アンチワーク哲学では、そのようなこともあり得ないと考える。
それはなぜか。
人間には、「貢献欲」が存在すると、アンチワーク哲学では考えるからだ。

労働がなぜ辛いのかを思い出してほしい。労働が辛いのは「生殺与奪を握る他者に支配され、意味を感じないことに取り組まされているから」であった。
 
むしろ人は自分が意味を感じたことならば楽しくやりがいを持って取り組める。〔…〕誰かにコーヒーを淹れてあげて、「ありがとう」とか「美味しい」と言ってもらえることは、人にコーヒーを奢ってもらうより嬉しいことに異論はないだろう。
 
人は誰かに意味のある作業を行って誰かに貢献することを、むしろ欲望している。これをアンチワーク哲学では貢献欲と呼ぶ。

「超入門 猿でもわかるアンチワーク哲学」

確かに、部屋でゴロゴロしながらNetflixを眺め続ける生活は快適だ。
だが、それをひたすら続けることになったらどうだろう?
おそらく、ほぼ全ての人はそれに耐えられない。
刑務所の懲罰房は、何もない部屋で1人孤独に座って過ごすというものであるが、これはとてつもなくキツイと有名だ。
人間とは、何かをせずには、他者と関わらずにはいられない存在なのである。
 
では、こうした労働(=他者から強制される不愉快な営み)の強制力を無くし、「労働なき世界(=自発的な貢献、もしくは"遊び"のみが存在する文明的な社会)」を実現するためにはどうすればよいのか?
それは、BI。ベーシック・インカムである。
ベーシック・インカムが全員に毎月支給されれば、労働の強制力――すなわち、どんなにクソで無意味な仕事でも「働かなければ食っていけない」という状況が解消され、人々は自発的な貢献と"遊び"を始める。
ブルシット・ジョブは消滅し、パワハラ上司に理不尽に頭を下げる必要もなくなり、本当に意味のある人間らしい営みだけが残っていく。
そうした理想の世界を実現するために、ネーモ氏はアンチワーク哲学の普及に努め、最終的には、ベーシック・インカムの実現を目指しているというわけだ。
 

■ 人間は他者と関わらずには存在(い)られない

ここまでアンチワーク哲学の解説を聞き、多くの人が不安に感じたポイントとしては
「本当に"貢献欲"なんて存在するのか?」
「BIが支給されたとしても、みんな利己的に振舞い、殺伐とした社会が生まれるだけなのではないか?」
というものが挙げられるだろう。
この件に関して、僕の過去が参考になるかもしれないと思ったので、少し語らせていただこう。
 
一昨年から去年ほどにかけて、僕はバイトとルームシェアをやめて実家に帰り、働かずに隠居老人のような生活を送っていた。
お金はどうしていたのかと疑問に思う方もいると思うが、僕はAmazonで書いた電子書籍がそこそこに売れて、なにもせずに印税が月に数万ほど入るようになったのである。
まさに、疑似ベーシック・インカムの実現!
趣味は散歩と図書館の本を読むこと。ときたま銭湯に行くぐらい。
そんな僕にとって、実家で質素に生活していくだけならば、それは充分な金であった。
 
こうして、ビジネスニートとして、"あがり"に到達した僕は悠々自適な生活を送るはずだった。
読者には「最低限だけ働いてゆるく生きよう」と述べつつ、そうした自分は印税で何もせずに生活する。
理想の生活を手に入れたはずだったのである。
 
だが、そうした生活も続けていると、だんだんと精神が蝕まれてくる。
社会のとの、他者との、関わりがないと、自分が一体何なのか分からなくなってくるのだ。
(この問題に関しては、わりと真剣(マジ)で発狂しそうになった)
ネーモ氏は"貢献欲"という用語を用いているが、それを僕なりに解釈させてもらうのならば、人間は――イルカがエコーロケーションで世界を把握するように――他者とのインタラクションによって、"反響"から自身の存在を"確認"しているのではないのかと思うのである。
人間は「人の間」であって、完全に孤独に、利己的に生きることはできないのだ。
(生活に余裕のないはずのホームレスが、なぜ公園のベンチでハトに餌をあげるのだろう?)
 
実は、去年から立ち上げた「ニートマガジン」も、そうした僕の背景があって企画されたものである。
「他のニートたちと交流していこう」
「社会へのアプローチを行ってみよう」
「社会不適合者だが文章やイラストが書(描)ける人に、自分の得たお金を再分配しよう(くすぶっている人を応援しよう)」
これまで公に明言はしていなかったが、ニートマガジンは、そのような個人的バックグラウンドが強く練り込まれている企画でもあるのだ。
 
ちょっと話が脱線してしまったが、結論を述べさせてもらうと、人間はBIが支給されたとしても、貢献(→ 他者との繋がりを得ること、自分の存在を確認すること)なしに生きていくことはできないだろう、と僕は考える。
ここで、「それは一部の陽キャだけだ! ひきこもって人と関わりたくないダンゴムシなような人間も存在する!」という批判もあり得るかもしれない。
それはそう、そうなのだが、まさに僕自身がダンゴムシのような人間なのである。
ダンゴムシ生活も、数年間続けばいつか限界を迎える。
やはり、人間は他者と関わらずにはいられないのだ。
逆に言えば、そういったタイプの人間は自身が納得するまで、ひたすら己の快適さを追求してもらうのがよいだろう。
自分の為だけに生きることには、やはり限界があると、身をもって実感することができるはずだ。
 

■ なぜネーモ氏を応援するのか?

なぜ僕はネーモ氏を応援するのだろうか。
その理由の1つとして、いわゆる既存のニート界隈や、働きたくない界隈、リタイア界隈の現状に、うんざりしているからという理由がある。
 
先ほどのセクションで「ビジネスニート」というワードを挙げたが、近年のニート界隈というのは、ほとんどこれなのだ。
「私はこんなに働かないで面白おかしく生きている」
「私はこんなに節約して低労働で質素に生きている」
「私はこんなに投資で悠々自適な生活をしている」
そういった情報やノウハウを、ブログや書籍で公開し、人気が出たら後は広告収入や印税を得て、本人はそれを実行せずにのうのうと暮らす。
そして、それに憧れたワナビーたちは、二番煎じのような内容をまたインターネットに公開するものの、本家には及ばず、ひもじい生活を送ることになるというわけだ。
こういった状況を、「ニートねずみ講」だとか「ビンボーねずみ講」と僕は呼んでいる。
 
娑婆(シャバ)の人間関係に嫌気がさし、寺に逃げ込んだものの、そこで待ち受けていたのもドロドロとした人間関係だった……というような笑い話(笑えない)があるが、僕にとってはニート界隈がそうであったのである。
結局、ニート界隈も、一部の「頭の働くやつ」が上手く立ち回って、働きたくない人々を搾取する。
「働かないで自由に生きていこう」と述べる有名ニートは知名度や横の繋がりで食っていくことができるが、それに憧れた人々は、何も保証がないニート・フリーター生活を送るはめになる。
こうした現状に、自分は、自分自身を含めて、とことん厭になっている。
 
また、僕の中で、「右派ニート(働きたくない。それゆえに現状の社会でうまいことやろう)」「左派ニート(働きたくない。それゆえに現状の社会を変えていこう)」という分類があるのだが、2010年代では、右派が優勢で、左派はひたすら冷笑の対象であったように思う。
90年代にはだめ連という、働けないだめ人間でも協力し、社会にアプローチを行おうという運動があったが、現在ではそういった左派的なニートコミュニティは失われてしまった(※ただし、だめライフで復活の兆しか?)。
ネットに出回る情報としては、
「おれはこんなにうまく社会で立ち回っている。普通に働けないけどアスペ的ライフハックで乗り切っている。だからこの有料noteをお前らも買って上手くやれ」
だとか
「おれは投資とリタイア生活でこんなに人生をエンジョイしている。おれはこんなに賢い。だからおれの書籍を買ってお前らも上手くやれ」
みたいなものばかりだ。
 
さてさて、愚痴が長くなってしまったが、こうしたニート界隈の中で、ネーモ氏の思想、エネルギー、ポテンシャル、バイタリティ、熱量は、僕にとって、現状に風穴をブチ空けてくれるかもしれない期待の星なのだ。
また、ネーモ氏も自身の記事の中でこのように語っている。

人はある単語を見ればそれを「一言で言い表している」と思い込みたい生き物である。つまり「アンチワーク哲学」という字面だけをみて「あーはいはい、そっち系ね」と訳知り顔でスルーされる可能性が高い。

実際アンチワーク系の思想は世に溢れかえっていて、「そっち系」とはそのうちのどれかを指しているのだろう。アメリカではそのまんまの言葉で「アンチワーク」というムーブメントがあるらしいし、中国には「寝そべり族」、最近の大学生の間で流行っている「だめライフ」などだ。他にも色々と種類はある。

それでもなお、僕がわざわざアンチワーク哲学なるものを主張し始めるということは、僕が他の思想は不十分だと感じているからである。そして、自分で言うのもなんだが、僕はそれらの思想が全く到達し得なかった新たな視点から主張を展開していると自負している。

「世間一般のアンチワーク系思想と、アンチワーク哲学はどう違うのか?」

アンチワーク哲学は、これまでの「怠惰系思想」とも「FIRE主義」とも違う。
それらとは異なる、新しい思想なのだということを主張している。
自分は分別するならば「怠惰系」の人間だと思うが、アンチワーク哲学が普及すれば、それを前後に「旧世代ニート(過去の働きたくない思想に基づいた)」「新世代ニート(アンチワーク哲学に基づいた)」という呼称が用いられる日がやってくるかもしれない。
 
「哲学」を名乗るだけあって、アンチワーク哲学は「労働の概念」からアプローチを行っているのが面白い。
哲学かぶれの人間として強く実感していることだが、自分の中で概念が変われば、世界の捉え方も大きく変わる。
ニートよ、小手先のしょっぱいテクニックで立ち回り、せこせこと自分だけ生き延びるような人生でいいのか?
もっと、世界に対して行うべきことがあるのではないのか?

これはただの海の風景だろうか? 僕らは「リアス式海岸」という概念を知った瞬間に、目の前の世界をそのように解釈することが可能になる。

 

■ 最後に

今回、まとも書房から出版される予定の『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』は、その名の通り、14歳でも対談形式の内容を通じて、アンチワーク哲学が理解できるというものである。
実際の中高生はもちろん、あまり本を読まないニート、精神的に文章を読むのがしんどい人でも、気楽に目を通すことができるのではないだろうか。

【このプロジェクトで実現したいこと】
僕は本を出版して満足するつもりはありません。労働を撲滅し、この社会のあらゆる問題を解決し、子どもたちに残すに値する素晴らしい社会を作るために、このプロジェクトをスタートさせました。そのための第一歩が『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』の出版なのです。
 
この本には難解な哲学用語は登場しません。捻りのきいたレトリックもありません。14歳の少年と関西弁の哲学者の対話を通じて、誰にでも理解できる言葉で、現代の労働社会を成り立たせている常識を次から次へと疑っていきます。
 
常識の打倒は価値観の転換をもたらし、価値観の転換はシステムの改革をもたらします。そしてシステムの改革は、価値観の転換を加速させます。そのときアンチワーク哲学は社会から消え去り、空気のように当たり前の常識となっているはずです。そして、労働で消耗する僕たちの常識は、さながら錬金術や魔女狩りのように博物館送りとなっていることでしょう。このプロジェクトが完遂されるのは、まさしくその瞬間です。言い換えれば、これは未来の常識を社会に問いかけるプロジェクトなのです。

「『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』出版プロジェクト」

ネーモ氏の言っていることはバカげている。ぶっとんでいる。イカれている。
そして、「そんなこと実現できるわけがない」と、自分の中の常識人が嘲笑している。
だが、もうこの現代日本が、資本主義が、21世紀に生きている人々が「限界」を迎えていることも事実だ。
(Twitterのおすすめ欄を眺めていれば、非常によく分かることである)
 
ネーモ氏の考えが、上手くいく保証などない。
出版しても全く世間に相手にされないかもしれない。
ベーシック・インカムが実現されることなど不可能かもしれない。
だが、このままダラダラと破滅に向かっていくぐらいだったら、アンチワーク哲学に賭けてみてもいいのではないか。
僕は乗った。あなたはどうする?

 

■ 追記

こうして長文のクラウドファンディング紹介文を勝手に書かせていただいたが、別に僕はネーモ氏の信奉者でもなければ、イエスマンでもない。
ダサい、シャバい、おかしい、間違っていると思ったことがあれば、どんどん指摘していくつもりだ。
(最悪のケースとしては、「弱者に革命を煽り、自分だけ私腹を肥やす」というものがある)
とはいえ、ネーモ氏が従順なイエスマンなど全く求めていないことも分かっている。
まとも書房のdiscordサーバーに集っているのは、濃く、クセがあり、強い我を持つ方ばかりだ。
クラウドファンディングだけでなく、活動そのものを支援したいと言う方は、以下のページを読んで、コミュニティに参加してもらえるといいだろう。

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