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東京アンチワークオフ会2days感想

6月22日(土)・23日(日)に自称アンチワーク哲学者であるホモ・ネーモ氏が主催するオフ会(東京編)に参加してきた。

上記のように、22日(土)は新宿で『14歳からのアンチワーク哲学』をゲリラ無料配布を行うというイベント。
23日(日)は誰でも自由参加できる出版記念パーティー(という名の隅田川ピクニック)であった。
せっかくの記念として、思ったことや話したことをまとめていきたい。

■ 本配りで心が折れる

22日は就活イベント帰りの就活生に本を配るという企画だったのだが、予想以上に本を受け取ってくれる人が少なく、途中で心が折れてしまった(笑)
「こんにちはー本を配ってますー」と差し出してみても、基本的にフルシカトか、困った顔や迷惑そうな顔を浮かべて去っていくかのどちらかである。
もちろん、これは相手を非難したいわけでもないし、相手が悪いわけではない。
配布チームでも話したのだが、東京――特に新宿という金と欲望が渦巻く街でカモにされないための処世術なのだろう。

読み返すとじわじわ面白いやりとり

心が折れたあとは、昼飯をネーモさんに奢ってもらったのに申し訳ないなあという後ろめたさを抱えつつ、ベンチに座りぼーっとしていたのだが、そこで改めて思い出したのは「働きたくなさ」に対する原体験(オリジン)のようなものであった。

僕がなぜ働きたくないかといえば、それは「人間性」を剥奪されるからなのである。
レジ打ちの仕事をすれば、会計をする機械として扱われ、ウェイターの仕事すれば、料理を運ぶ機械として扱われる。
このように、「人間扱い」されないのが、僕が労働で感じる一番つらいところなのだ。
もちろん、世の中の大人たちはこのように言うのだろう。
「そこは仕事なんだからさ、仕事モードに"切り替えて"やっていこうよ」と。
だが、僕にはそれができない。
どんな場面であっても、「素の自分」としてそこに存在してしまうのだ。
だから、上記のような背景を踏まえると、今回の本配りで大量にシカトされるというのは、(もちろんある程度の苦難は予想していたが)想像以上にハードな体験であった。
無視される――そこに"いないことにされる"というのは、人間にとって最もみじめな扱いの1つだからである。
もちろん、ネーモさんのように、試行錯誤の中に成長の喜びを見出し、楽しく本を配れる人もいるだろう(成長の楽しさというのは、僕にも分かる)。
だが、僕のようなダウナー系ニートは、そのようなステップの取っ掛かりにも、辿り着くことができなかったようだ。
 
思うに、自分はやる気がどこかで空回りしていたのかもしれない。
最近はけっこうアクティブに活動しているつもりなのだが、頑張るということはむやみに前に飛び出ればよいというものではなかったのだ。
兎にも角にも、フォワードになりたがることが良いのではなく、ディフェンダーならディフェンダーとして自分のポジションをしっかり務めるのが、自分のためにも他者のためにもなるのである。
今後は自分の得意分野をもっと洗練させていきたい。
 
本配り編をまとめよう。結構マイナスっぽいことも書いたが、別に僕は「本配り行かなきゃよかった」と思っているわけではない。
もちろん、本配りでシカトされるのがつらかったのはリアルな事実であるが、自分の意志で参加し、自分の意志でやめることができたので、それは自己決定に従った、何の不満の無い体験なのである。
労働のようにネチネチと続く苦しみはない。
こう振り返ると、活動を通じて「労働なき世界」の一端に触れられたようにも思う。
(そういえば、「自己決定こそ幸福である」という価値観が僕らのベースにないですか?という話をネーモさんとしようと思っていたのに忘れてしまった!)

(追記)
悪質な宗教団体では、メンバーにあきらかに無理な勧誘をさせ、辛い思いをさせた後に「あなたたちは頑張った!」「間違っていない!」と信者をさらに囲い込む手法があるらしい。
何が言いたいかと言うと、当日配布チームで「そういう感じのイベントですか(笑)?」という話をしたほどなので、別に怪しい団体だったり、ホモ・ネーモ教状態になっているわけではないということはお伝えしておきたかった。

■ アンチワークトーク

本配りを終えた後は、安居酒屋と新宿路上のベンチで飲んだのだが、そこでアンチワークトークをみっちり行った。
すべてを文章でまとめるのは難しいので、ここでは語ったトピックの一部を箇条書きで紹介させてもらう。
 
・ニート界隈はカルチャーやファッションを生み出すべきじゃないのか?
・↑やりすぎると、「世捨て人風」「農家風」などのキャラ作りコスプレのビジネスニートになるのではないか?
・↑やはりファッションは思想のコアな部分から、必然的に体現されるべき
・まとも書房は「言ってるだけの団体」になってしまわないのか? 「ベーシックインカムが導入されれば、世界は救われる!」と信じ込み、メンバー同士で慣れ合って満足するだけのカルト団体に堕落してしまうのではないか?
・具体的にどうやってベーシックインカムの実現を目指すのか?
・(上記2つの質問に関連して)ネーモさんは最終的に政界に進出するのか?
・大乗アンチワークと小乗アンチワークがある
・ベーシックインカムによる全人類の救済が大乗、個人的ライフハック、FIRE、ニートコミュニティなどは小乗
・コミュニティや村作り的な活動もしたいが、どうしても二番煎じになりがち
・「労働なき世界を実現しよう!」といっても、実際今の社会でニートになることは苦難の道であり、個人の人生に責任を負えないことはネーモさんも苦しみを感じている
・上記を解決するために「働かないノウハウ本」を出版するのはありかもしれない
・↑結局、発信者だけが印税の利益を得て、ワナビーたちは貧乏生活を強いられる「ニートねずみ講」になるリスクもある
・寝そべり族は寝そべることが「個人的な実践」であり、「社会への抵抗」でもあるらしいので、その辺がヒントになるかも?
 
その他もいろいろ話したのだが、全部を載せるのは大変(載せられない話もある)なのでこのぐらいにしておく。
個人的には、(読んだのかどうかは分からないが)ネーモさんが『無頼伝 涯』のラストシーンのようなことを言い始めたのが激アツであった(笑)
 

■ ただ人間がいる

23日(日)のパーティの話題もしていこう。
22日と23日で僕はいろんな人に出会った。
労働撲滅界隈ということで、(もちろん自分も含めて)ニート、社会不適合者、精神疾患など、訳アリな人々が集うわけである。
ぶっちゃけ、少し、いやかなり身構えていた。
だが、実際にお話ししてみると、みなさん「まとも」なのである。
社会でうまくやっていけないというだけで、そこにいるのは紛れもない「人間」なのだ。
もちろん、クセが強い人もいる(自分だって傍から見たらそうだろう)。
だが、それはそれで「キャラクター」や「面白さ」の範疇であり、異常に攻撃的だったりするような方は存在しなかった。
 
ニートマガジンのオフ会でもそうだったのだが、僕はリアルで"ネットの変な人"と会うことに身構えすぎていたなのかもしれない。
「ネットで尖っている人にリアルで会うともっとやばいんじゃないか」という認識は間違いで、文章や音声といったメディアのみに依存する状態こそが、その人物の最大の尖りが現れている状態だったのだ。
 
哲学者のレヴィナスが「『顔』こそが道徳の源泉である」と言っていたが、まさしくそうなのである。
ネット上のレスバトルモンスターも相手の顔を見ながら、ひどい罵詈雑言を吐くことなどできないのだ。
紛争地帯でも処刑のときは顔に布をかぶせると聞くが、これは相手を「人間」だと思うと、心が耐えられないからである。
(ここまで書いていて気付いたのだが、僕は社会システムや資本主義に奪われて画一化されていく、個人の「人間性」を取り戻したいのかもしれない。
「異教徒は人間じゃないから殺してもいい」
「労働者は賃金を払っているから道具扱いしてもいい」
「画面の向こうの相手は顔が見えないから何を言ってもいい」
これらは類似した残酷な行為である)
 
また、23日の隅田川パーティーで衝撃だったのは、高校の同級生と再会したことである(笑)!
クラスは隣だったのだが、体育などの合同授業や、廊下ですれ違うと喋るぐらいには仲が良かったので、ビックリだった。
当時から、独特の"我"というか、自分を持っているヤツだと思っていたが、まさかこんなところ(労働撲滅界隈)で再会するとは。
人間、生きていると、何があるか分かりませんなあ。
 

■ 結局何がしたいのか?

23日もいろんな話をしたが、一番返答に困ったのは以下のような質問である。
「ゆるふわさんは、最終的に何を目指してる人なんですか?」と。
確かに、僕は何をしたい人なのだろう?
例えば、モンキー・D・ルフィであれば、「海賊王になること」と言うだろうし、ホモ・ネーモであれば、「労働を撲滅すること」と言うだろう。
この項目でビシッと答えを提示できればかっこいいのだろうが、ぶっちゃけまだまとまっていないというのが本音である。
逃げかもしれないが、せめてヒントになりそうな、アイデア集だけは提示しておこう。
 
・孤独に働かないで生きていくのには限界がある(これは数年のニート生活で腹落ちレベルに実感)
・「何もしたくない」といえど、今この瞬間も細胞は入れ替わり、空気は循環を続けている。この世界に生きている限りは、どうしても「動き」に属する
・結局、他者と関わることからは逃れられない。不可欠である。これは生活を行う上でも、精神的な問題としても
・孤独主義者や厭世主義者も、"そのような形"で他者と関わりたがっている
・僕はこの世界の「そうだからそう」「みんなそうしているんだから」という押し付けや思考停止を嫌悪している
・「週5日の8時間労働」などはその典型である
・普通にこの社会はイカれていると思う
・「働きたくない(働かなくてよくね?)」と主張するのは、自分のためであり、他者のためでもある。
・働きたくないとき、個人(もしくはグループ)で働かない生き方を追究する方法と、社会に改革を求める方法がある
・反体制を掲げる人間は、結局その後新たな体制側に立ち、甘い汁を啜るという事例が歴史上数多く確認されている(これはネーモさんも言及してた)
・社会の改革も必要だが、現時点、今この瞬間にうまく生きていけなくて苦しんでいる人がいる(自分も含めて)
・だから、現実的にベターなのは働きたくない人でコミュニティを形成しつつ、社会へのアプローチも行っていく方法だと思う
・個人的な意見を掲げるなら、"実存ニート"をもっと増やしたい
・存在の無根拠さや偶然性に深く向き合うことによって、「そうだからそう」という思い込みを脱却することができる
・かといって、虚無主義的になるわけではない。偶然性を観想することは、他者に対して「私もそうだったかもしれない」という思いやりを生み出す
・労働の機械や道具であることから脱却して、"人間"にみんな戻ってほしい
 
うーむ、こんなところだろうか。
なんとなく頭の中身が伝わってくれれば幸いである(笑)。
 
現時点では、とりあえずぼんやりとしたビジョンであっても、アクションを起こすことが重要だと思っていて、ニートマガジンでも夏にVol.2を発刊予定だ。
また、今回のオフ会のように、「人間」が集まれる場を開いていくことも大切であるだろう。
そういう意味では、主催者のネーモさんには改めて感謝である。
 
それでは、意外と長々とした記事になってしまいましたが、ネーモさんも、一緒に本を配った方々も、隅田川パーティーに参加された方も、機会があればまたどこかでお会いしましょう!
ありがとうございました。

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