【小説】 本屋に行く理由 1

「絵本、ですか?」
榊原弥生は眉間に皺を寄せて聞き返した。また小皺が増えた気がする。
「ええ。なんでもいいんです。榊原さんが小さい頃に読んでもらった絵本なら何でも。今の和子さんに読み聞かせてあげたら、あなたの母親だったことを思い出すかもしれません」
認知症の老人ホームの施設長は、認知症の老人に絵本を読み聞かせるとどんな効果があるかを長々と話し始めたが、弥生には全く頭に入らなかった。
私は絵本なんて読み聞かせてもらったことがない。
私の母の和子は女手一つで私を育ててくれた。
そのことには感謝しているが、母はスナックで働いていたから絵本を読み聞かせてもらえるような環境ではなかったし、絵本すら家になかった。
なのに今、この施設長は読み聞かせをしてもらった絵本を母に読み聞かせろと言っている。
私にはしてくれなかったことを、なぜ私がやってやらなきゃならないんだ?
私の足を引っ張るばかりで、私には何もしてくれない母。
この母に、私は読んでもらったことのない絵本を読んでやらなきゃならないのか?
「最近、和子さんが物を投げるようになってきたでしょ?まだ施設に慣れてないのもあると思うけど、やっぱり心が落ち着くようなことをしてあげたほうがいいと思うんですよね」
施設長は丸々とした顔をさらに丸くするようにニッコリと口角を上げながら話を続けている。
こんな平和そうな顔と体をした施設長に、私の話をしたってわかってもらえないだろうし、わかってもらいたいとも思わない。
ただ、私から母を遠ざけてほしい。
それだけだ。
「わかりました。次の面会の時に絵本を持ってきて読み聞かせてみます。でも私の絵本なんて残ってるかしら。40年くらい前になりますから」
私はありったけの力を使って愛想笑いし、その場を逃れた。

「ねぇ。お父さんって絵本持ってる?」
弥生は缶ビールをあけながら夫の雄二に聞いた。
「絵本?持ってるわけねぇだろ」
雄二は答えるものの、視線はいつもテレビに向かっている。
どうして絵本が必要なのか、何に使うのか、雄二は聞こうとしない。
そう。この人にとって私はいてもいなくても良い存在なんだろう。
家のことや高校生の娘の世話をするから役に立つが、義理の母の施設の費用を出してやったり、口うるさい妻の愚痴を聞いてやらなきゃいけなかったりと面倒ごとも多いから、プラスマイナスゼロ、つまり私はゼロという存在なんだろう。
弥生は大きくため息をついた後、缶ビールを飲みながら娘の部屋へと行った。

「結衣ちゃん、ねえ、結衣ちゃん!聞こえてる?」
弥生は娘の結衣の長く栗色に光る髪をかき分けた。
耳にはイヤホンがついている。
弥生はイヤホンをはぎ取った。
「うわ!何?入るときノックしてよ!」
結衣はまるでゲテモノを見るかのような目で私を見た。
「ノックしたよ!何回も。音量、下げなさいよね。ったくもう」
結衣はもう一度弥生をにらんだ後、机に向かおうとした。
「あのさ、絵本、持ってない?」
「絵本?持ってるわけないじゃん」
結衣は雄二の子供だ。
こういうときに親子そろって目線は私に向かない。
「だよね。ごめん、勉強の邪魔して」
弥生が結衣の部屋を出ようとしたとき、結衣の小さな独り言が耳に入った。
「買ってもらったことないっつーの」
弥生は結衣の部屋を出た後、立ち尽くす。
そんなわけないでしょ?
体の弱かった結衣に私はいっぱい本を読んであげた。
自分がしてもらいたかったことを結衣にはいっぱいしてあげた。
毎晩のように絵本を読んであげた。
だから絵本を買ってたはず。
でも何を読んでやったか思い出せない。
確かに私の腕に結衣は頭をのせて、仰向けになって、結衣が寝るまで読んでやって、結衣が寝たらゆっくり腕を抜いて、布団をかけてやった。
私は、そうやって子育てしてきたはず。
なのに、何を読んだか、思い出せない。
酔いが回ってきたのだろうか?
弥生はめまいがし始めたから寝室へ行きベッドに倒れこんだ。

弥生は次の日、パートの昼休み中に近所の本屋に行った。
たまに雑誌を買うことはあるが、あまり来たことがなかった。
店内は本屋なのにおもちゃやレトルトカレーなど様々なものを販売していた。
本だけじゃ苦しいのはわかるが、あまりにも節操がなさすぎる。
弥生はため息をつきながら店に入ってすぐ右手にある児童書コーナーへ向かった。
私は娘の絵本を買う母親に見えるだろうか?
それもと孫の絵本を買う祖母に見えるだろうか?
四十代という中途半端な年齢と実年齢よりも老けて見える小皺について考えながら児童書を見て回った。
実際に本を見たら、結衣に読み聞かせた本を思い出すかもしれないと思ったのだ。
だが全く思い出せない。
むしろ混乱してきた。
頭にうんちをのせたキャラクターの絵本や、お涙頂戴の目が潤んだ猫が表紙の絵本など、まったく見たことがない絵本ばかりだからだ。
私は本当に結衣に絵本を読んでやっていたのだろうか?
すると店員が近くを通りかかった。
「あの。すいません」
店員が振り返る。
眼鏡をかけて髪を一つ結びにした飾り気のない女だ。
頼りなく見えるから大学生のアルバイトだろうか?
「何かお探しですか?」
店員の両手は二十冊以上抱えている。
「お忙しいところ、すいません。あの、どんな絵本を選んだらいいか迷ってまして。今、どんな絵本が人気なんですか?」
私が聞くと店員は手に持っていた本をドサッと近くの机に置いた。
「児童書はやっぱりロングセラーがよく売れています。正面にあるような最近人気の本もありますけど、絵本って親御さんが選ばれるので、親御さんが読んでもらった本が良く選ばれていますよ」
店員は私みたいに愛想の良い笑顔なんて見せずに淡々と話した。
「私、読んでもらったことがないんで、わからないんです」
弥生は気づくと話し始めていた。
「あなたにはわからないでしょうけど、読み聞かせをしてもらったことがない人も世の中にはいるんですよ」
私はなぜこの店員にこんな嫌味を言っているんだろう?
この人の不愛想で偉そうな態度が気に食わないんだ。
だからこんなことを言ってるんだ。
私は悪くない。
この人がこんな態度で、こんな表情で、こんな話をするから
「そういう方、結構いらっしゃいます」
店員はやはり無表情だがしっかりとした口調で言った。
「そういう方って、私みたいな人ってこと?」
「はい。老々介護をされていて、ボケた奥さんに絵本を読んでやりたいけどどれがいいかわからない、とか、戦争で小学校をちゃんと出てなくて漢字があまり読めないけど本を読みたいから楽しい絵本はないか、とか、いろんな方がいらっしゃいます」
弥生は頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。
私みたいな人っていうか、私より大変な人ばっかじゃん。
弥生が黙っていると、店員は絵本を数冊持ってきた。
「そういう方におすすめしてるのは、このだるまちゃんシリーズです。絶対読んだことあるけど、内容が薄いからみなさん覚えてないんです。だから何回でも飽きずに読めますし、こんなかんじでシリーズがいっぱい出てるので、いろんなだるまちゃんが読めます」
店員が絵本をパラパラとめくりながら説明してくれた。
そして弥生はだるまちゃんというこのキャラクターを見て思い出した。
私が結衣に読んでやっていたのはこれだ。
話の内容は全く覚えていないが、この絵だけ覚えている。
店員の言うように内容が薄いから覚えていなかったのだろう。
弥生は店員が持ってきていただるまちゃんシリーズを全て買って帰った。

「今日、外で飯食おう」
弥生がパートから帰ると、なぜか雄二がダイニングに座っていた。
まだ夕方5時だ。
なぜ雄二がここにいる?
「お父さん、どうしたの?もしかして、リストラ?」
弥生が真剣に聞いたから雄二は大笑いした。
「違うって!結衣がさ、お母さん、何か変だから、今日は楽させてあげようって今朝言ってたんだ。だから半休使って帰ってきた。何がいい?寿司でも焼肉でもなんでもいいぞ」
雄二が久しぶりに弥生の目を見て話した。
お腹も出て、顔のシミも増えて、頭も薄くなってきたけど、雄二の優しい笑顔は変わらない。
「ただいまー。あ、お父さん、はや。気合入ってんね」
結衣が学校から帰ってきた。
親子そろって笑うと優しい笑顔になる。
「みんな、ありがとね。じゃあさ、結衣の好きなお寿司にしよう!スシローにする?はま寿司?」
「えー?ダイエット中なんだけどな。ま、いっか。じゃあスシローで」
「おいおい。お母さんの好きなものにしろよ。そのためにせっかく半休つかったんだから」
「そのためってっつーか、自分が休みたかっただけでしょ?」
夕日に染まったリビングが笑いの絶えない空間になっていった。

「だるまちゃん、面白かった?」
弥生は母の和子に聞いた。
和子はいつになくおとなしく絵本を聞き入っていた。
「おもんない。つまらんわ」
和子は関西出身ではないはずなのに、呆けてからなぜか関西弁を話し始めた。
「そっか。じゃあ違う絵本買ってくるよ」
「おかあちゃん!無駄遣いしたらあかん!そうやっていっつも金使うから、うちらの給食費、ないなるんや!」
和子にとって弥生はお母さんになっているようだ。
「わかったわかった。でもあの本屋さんに悪いこと言っちゃったから、やっぱりまた買ってくるよ。じゃあ、また来週ね」
弥生は絵本をもって立ち上がった。
「おかあちゃん、ありがとう」
いつも言動が狂暴な和子が今日はおとなしい。
あの丸々とした施設長の言う通り、絵本は効果があるのかもしれない。
「こちらこそ、ありがとう。じゃあまた来週ね」
弥生はいつになく優しく微笑みながら施設を後にした。

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