理想主義INFJが、「ルールですから」について考える
※感じ考えたことを残したいと考え、書かせていただいたのですが、私の思考をそのまま書き起こす形になったので読みにくいかと思います。論理的でないと感じられるかもしれません。
それでも良いと思ってくださるのであれば、ご覧いただけると嬉しいです。
この世には沢山のルールがある。
それを破れば居場所をなくすことも普通にある。
ルールの中で不利なのは、弱い立場の人たち。
雇用者と被雇用者だと圧倒的に雇用者が強いし、医者と患者だと医者の方が強いと私は思う。
例えば、精神的に辛くて会社を休みたい人がいるとする。その為には、診断書が必要であると指示される。
医者が診断書を書くか決めて、どの薬を使うか決める。患者に決定権はない。
そもそもの話になるが、私は、自分がどんな症状であれ、医者に太鼓判もらわなければ認められないっておかしな話だなと思っている。
辛いことを証明するために、他人の力が必要なんだ。
理屈は分かる。辛いと言うだけで休めてしまうと、嘘が溢れて、保険などの制度が混乱する。
でも、それだと辛いのボーダーを他人に引かれることになる。
自分がどれだけ辛いと思っても、他人が引いたボーダーに達するまで休めないって事だ。つまり、決定的な病気になるまで休めない。
でも、医者は、役員は、言う。
「これでは診断書は書けませんね」
「診断書がないとその制度は使えません。ルールですから…」
その人は、病気になるまで働きました。
って、これは私の考える妄想でしかないけど、この世界は、そういう勝手なルールで溢れてる。
ルールは時に、社会を円滑に回し平和をもたらすけど、時にとんでもない理不尽を生む。
理不尽とは、言葉通り、理が尽くされていないということだ。
道理に適っていないし、説明もない。
もはや我儘と相違ない。
それでも従わないと、社会でやっていけない。
変なルールを、変と思わない人がいる(価値観の形成を無意識に強いられてる?)。
その人たちを、思考を停止した歯車みたいだなと思う。
私は人を部品として扱う社会には行きたくない。
って高望みだろうか。
私もいつか、自分の保身のために誰かが決めたルールに従い、人を部品として扱う日が来るのだろうか。
個人個人を大切にするって凄く大切な事だと思う。誰にとっても、一生はかけがえのない一生だから。
理不尽だと思うルールなんて沢山ある。
厳格化しない方が良いと感じるルールも沢山ある。
ルール自体は嫌いではない。
刑法とか交通法とか、ないと困る。
ただ、理不尽なルールを当たり前のように受け入れるのが嫌なのだ。
私がおかしいのかもしれない。書いている今だって、それでルールを破ることも、また我儘な気がしている。というか、今まで私は殆どのルールに優等生的に「仕方ないよね」って納得してきた。
黙って受け入れるのが正しいと思えない。しかし、自分に何ができるのか分からない。これからも優等生的に「仕方ないよね」で済ますのだろう。
しかし、これから私は社会に出る。考えなしに一つ覚えでルールを守り、誰かを理不尽に叩きのめすかもしれない立場になる。私は賢いフリして「ルールですから」って言う人間にはなりたくない。
以前出会った役所のおじさんは、親切で、多少グレーだけれどもルールを外れ、私を守って、社会もうまく回していた。役所なんてあまり好きではないが、あのおじさんは凄く凄く好きだ。理不尽なルールを、機転を効かしてひっそりと理不尽でなくした。
時に、私がおかしいと感じていた事が、海外視点だとやっぱりおかしい事がいくつかあるのだ。
例えば、一部の会社の話になるが、会社員の所属部署を人事が決めるとか。希望を無視して、良いように使う。部品扱いだ。
その事をアメリカの友人に話すと、アメリカではあり得ない事だと驚かれて、驚いた。
アメリカだと、絶対に募集時に部署が指定されていて、自分で選べるらしい。自分がしたいことをできないのは怖いと言っていた。
人を人として尊重しないルールを、ただ己の保身のために厳守する偉そうな人達を、私は好きになれそうにない。そして私も、そうならないために勉強をして、少しでもマシになりたい。
少し暗い話になってしまいました。すみません。
お付き合い頂き、ありがとうございました!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?