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男の子に生まれたかった、なんてことは。

男の子に生まれたかった、

というとわたしが女という性に散々悩まされてきたかのようだが、実際のところそうでもなく、わたしはほとんどのことで男の子に負けずに生きてきてしまった。勉強は男の子よりずっとできたし、口げんかも男の子に負けたためしがないし、運動ははなから諦めていてどうでもよいし、職場でのハラスメントはこざかしく味方をつけて蹴散らしたし、スナックに来ていた男の人たちにだってばかにされることはほとんどなく畏れ憧れられていたし(そうでない人は来ないのだし、来ない人は自分の世界には存在できない)、いらん奴は相手にせず、好きなひとにはそれなりに愛されてきた、ように、思う。同界隈の人々がマンスプレイニングやマウンティングに悩んでいたときも、自分はそんなことされたこともないな、とぼんやりしつつ、その子たちの気持ちをケアすることに重点を置いていた。

男の子に負けず、気丈に、フェミニストになりすぎず、女を売りにしないでもないが、するでもない。要はその場その場で適した性を出す。ドゥルーズ=ガタリの「n個の性」はようわからんが、性はもっと個々人が選べるようになればよいのに、と思っている。わたしはそうして生きてきたし、ずっと自分のセクシュアリティはわたしだけのものだ、と思っている。それについて誰かに文句を言わせるつもりはさらさらない。わたしはずっとこの性と向き合って闘って生きているし、金も払わないやつにそれをどうこう言われる筋合いはないのだ。メディアが「20〜30代女性向け」と謳うものが自分向けであったためしなど、人生で一例もないが、それでもわたしは生物学的に女だし、ジェンダーのうえでは女性が主軸にありつつ、もっと自由だ。

でも男の子に生まれたかった、と思うときは来る。そのほうがしっくり来る、と思うときは、しばしばある。生まれる前は男の子だった、というと大仰だが、男の子の予定で生まれ、男の子の名前が用意されていた、ということの偶然を、勝手にひもづけたくもなることはある。

ひとつは、生理が重いとき。初めて思ったのは大学受験を控えていた高校時代、生理が重くて眠くてたまらず、受験勉強にてんで集中できなかったとき。もうひとつは、恋をしたときだ。

孤独に焦がれる人のそばに、女のわたしはいることができない。男の子になりたかった。男の子になって、一緒にドライブしながら、海を見つめるその人を、湿った感情なんか抱えずに見つめていたかった。女のわたしはそれができない。女のわたしは──生物学的に女で限りなくヘテロ寄りでペニスが好きなバイセクシュアルのわたしは──焦がれるひとのそばにいては、セックスがしたくなってしまう。わたしはそのひとの孤独が好きなのに。一緒にいてほしいなんて思っちゃいないんだ。わたしを愛してほしいわけではないんだ。それでも、セックスはしたいのだ、残念ながら。そのひとが熱っぽい瞳でわたしを見た途端に、わたしが愛したそのひとの孤独や、世界への恋慕はどこかへ消えてしまって、わたしはそれを残念に思う。

わたしが男の子だったら、そのままのそのひとのそばにいられたのに。

お前は女だ、と言われるときも、ノンケではない、と言われるときも、結局ノンケなのだ、と言われるときも、その程度でマイノリティを語るな、と自責するときも、ある。まわりの女の子から爪弾きにされたことなど、何度もある。わたしはわたしで、生きづらさの中を生きている。それについてガタガタ言われる筋合いは、自分とまったく同じ人生を生きて来なかった人間に対しては、マジでない。わたしは誰のことも責めたりしない。もっと自由に。わたしが自由を求めるように、みんなもっとわがままでいい。自分の体のよいところだけ調子に乗って、悪いところだけうじうじして、その中で、後天的なパワーで、できることを探す。そうやって生きればよい。わたしは男ではないし、女だし、女ではない。わたしはわたしだ。わたしが持っているのは、わたしという性だ。その中で勝手に悲しくなったり、悦んだりする。その痛切な生命の悦びが、俗世に絡まれたお前にわかるものか、という気持ちで。文句を言うならお前がこちらへ来ればよいのだ。

お酒を飲みます