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「焼く」

 女の子がベランダの柵に肘をかけて見おろすと、その人はいつも決まった場所で、同じ方向を見て立ち尽くしているのだった。太陽のまぶしい日はひさしのついた帽子をかぶり、雨の降る日は紺色の傘をさして、吐く息の白く染まる日はコートの襟で顔の下半分を覆い、風の強い日は目をぎゅっと細めて、同じ場所に立ち尽くしているのだった。女の子がその人は何かを待ってそこに立っているらしいことに気づいたのは、ある晴れた暖かい日、灰色の小鳥が立ち木と誤ってその人の肩にとまってしまったときのこと。女の子はこれまでどうしたって動くことのなかったその人の瞳がわずかに小鳥のほうを気にしたのをみとめた。女の子の全身に、ああこのひとは、何かの信仰に基づいた修行のように自分を痛めつけているのでは決してなく、大切な何かを待ち焦がれてそこにい続けているのだという確信が降ってきた。けれどもその人の立ち尽くしている道にはバスなんて通らない。バス停がないのだから。タクシーだったらひと月にいっぺんくらいなら通ることもあって、実際にそう解釈した一台が停まりドアをバンと開けたときも、その人は一瞥もくれず微動だにしなかった。女の子は思った。その人は自ら目的へ向かうことはできず、求めているものはそちらのほうからこちらへ来るのを待つしかないのだと。つまりそれは、生きているなにかなのだと。女の子の胃は大きく動き、柵にかけた肘が自然にじり、ブラウスの袖をベランダの柵の鉄錆が茶色く染めた。

 来る日も来る日もその人は待ち続けた。女の子がまだ学問を始める前、その人は黒いエナメルのベルトが輝く帽子を被っていた。女の子がランドセルを背負うようになったころ、その人の帽子は薄黄ばんだ鍔つき帽に変わった。女の子が恋を覚えたころ、その人の帽子は長い円筒形に変わった。女の子が子どもを産んだころ、その人は絵描きのようなエンジのベレー帽を被った。女の子が柵を掴む手が、経年の筋と黄緑の血管に覆われるころ、その人は禿頭を輝かせ、ウォールナットの杖をついていた。

 その人を見下ろす回数の合計が3万回にものぼるころ、女の子は夢を見た。暗闇の中にぽつんと空色した二階建ての一軒家があり、女の子はそれが自分の家であることにすぐさま気づいた。忍び寄る黒い両の手が、女の子の家をがつんと掴む。手は家を持ち上げ、乱暴に何度も振り下ろす。まるで愛猫がもぐりこみ出られなくなった花瓶をそうするように。喉にビー玉をつめてしまった赤ん坊の首をそうするように。女の子の世界はぐらんぐらんと揺れる。上下に、左右に、前後に、斜めから斜めに、ぐらんぐらんと揺さぶられる。女の子は毛布を被ってベッドの上に身を潜める。大丈夫、大丈夫と唱えながら。まるで唱えるのをやめてしまった瞬間に、世界がちりぢりにほつれてしまうとでも思っているかのように。目をつぶりながらも女の子は知っていた。夕食の支度をしていた階下から火の粉が上がり、部屋の床を焼き尽くそうとしている。床にはめ込まれた板と板の隙間は赤々と燃え、真っ黒の煙がもくもくと部屋を覆っている。黄色い火の粉は床を滑りベッドへ駆けあがり、毛布を覆うだろう。そうして火の粉は火の粉と手を取り合い、わたしごと毛布を焼き尽くすのだろう。それでもわたしは生きることをやめないのだろう。このままで終わらせてはいけないから。

 青くすみわたる空、走る白い筋は雲でなく、陽の光。

 女の子がベランダの柵に肘をかけて見おろすと、そこらじゅうを真っ白の砂が覆っている。いつもの場所にその人はいない。女の子は知っている。その人の待っていたものがようやく来たことを。口から肛門まで、女の子を貫く内臓の管がグンとまっすぐ伸び、痙攣する。焦げた柵が女の子の肌を黒く塗る。眼球とまぶたの隙間から目尻へすべりだした涙が頬を伝い、唇の隙間から舌のうえに流れ込む。女の子は高揚する。通り過ぎてきた日々を振り返れば、いままさに覆われているこの感情には、喜びという名状が最もふさわしいことを、彼女は知っている。

(フリーZINE『好物』Vol.34テーマ「焼く」寄稿作品に加筆修正)

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