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この海がつなぐこちらと向こう岸

しまった、距離感の計算を間違えた、と思った。会話をしながら。たまに、やらかす。バーで働いていたころ、熱心に口説いてくれたお客さんから、君はあまりにもあけすけにプライベートのことを話すから、そんなことを言ってくれるのは僕だけなのではないかと勘違いをしてしまう、と指摘されたことがある。思い当たるふしはいくつかあって、ひとつは、わたしが家族と会話をしないこと。もうひとつは、長く特定のパートナーをつくらずにいたこと。要は、本来プライベートでセンシティブな話をシェアすべき「クローズドな空間」を持つくせがないのだ。

クローズドな空間を持つひとの強さと無邪気さに、悔しくて涙を流すことが二度、続いた。生まれたときから世界に愛されているひと、というのがいて、わたしは、彼らのことが大好きだ。でも、そのまぶしさに目を灼かれることもある。そういうときは、部屋を暗くして、本を読んだり、映画を観たりすべきであって、ブルーライトの中になにか、ありもしないものを探さないほうがよい。

この海がわたしと大切なひとたちをつないでいると思うときも、隔てていると思うときもある。自分と、自分ではないひととの距離は、これくらいのものだ。物理的な距離があろうと、なかろうと存在する、圧倒的な断絶と、シェアできなさ、は、人間の美しさだ。みんなそうしたひとりぼっちを、誤魔化したり、調教したり、愛したりしながら、熟成してゆく。

尊敬しているひとはみな、書くことは、自分を壊すことだ、と言う。自分について語ることはおそろしく、ひどい倦怠感を連れてくる。語れば語るほど、口が乾き、その水を湛えた言葉たちばかりがウェットに、ヘヴィになってゆくのは、恥ずかしい。一方で、壊す必要が生じるときもある。もう一度、泳ぐために。これはコンテンツではなく、人生であり、わたしは写真を撮るためではなく、この身体のために食べ、その熱のために飲むのだ。

言葉とお酒は似ている。この海も、よく似ている。誰かと誰かのあいだが紡ぐ物語の中に、たゆたっている。

(03/08/2020)

お酒を飲みます