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消えた豊臣秀吉を追いかけて Part 3 政治に翻弄される天下人の尊厳

●太閤フィーバーは討幕派によって作られたか

 Part3は私・吉野の所感を元に進めますので、軽い気持ちで読んでください。

 第二期以降の大阪豊國神社の来歴を知る中で素朴な疑問が生まれました。1880年(明治13年)9月に明治天皇の仰せを受け、第二期大阪豊國神社として豊国大明神の甦った場所が、どうして大阪城でないのだろうか。実は明確な理由があったのです。8年前の1872年(明治5年)4月に陸軍省が発足し、大阪城に大阪鎮臺本營(おおさかちんたいほんえい)を構えたのですね。当時の大阪城が陸軍の用地だったから、大阪城に第二期大阪豊國神社が建たなかったのです。

1877年(明治10年)の『大阪府管轄市街区分細見縮図』が陸軍本営を示します。大阪城の周囲に物々しい雰囲気が漂ったのでしょう。

 では、大阪城以外に第二期大阪豊國神社を建てるとして、中之島を選んだ理由は何でしょうか。私はこの点が引っ掛かるのです。江戸時代の中之島といえば蔵屋敷が立ち並び、堂島米市場などが賑わった場所です。版籍奉還や廃藩置県の際に明治政府が徳川幕府の建物を接収したとしても、わざわざ経済の中枢を神社の境内に変える必要があるのでしょうか。ここで、1938年(昭和13年)4月16日の『朝日新聞』の記事「都計の大手術」を紹介します。次に要点をまとめました。

    1894年(明治27年)の日清戦争、
    1914年(大正3年)の第一次大戦の
    特需などにより、
    大阪市は約3.5倍に拡大した。
    紡績を中心に工業を発達させ、
    さながら「東洋のマンチェスター」や
    「大大阪」であると称賛を受けた。

 約3.5倍に拡大した大阪市がほぼ現在の大阪市に相当します。逆をいえば、基準となった1.0倍の大阪市がほぼ江戸時代の大坂に相当します。北端は梅田、南端は千日前、西端は大阪湾、東端は大阪環状線の京橋駅から寺田町駅までです。日清戦争の開戦が1894年(明治27年)ですから、14年前の第二期大阪豊國神社を建てた1880年(明治13年)頃の大阪は江戸時代の大坂とほとんど同じ範囲だったのですね。したがって、中之島以外にもっと土地があったはずなのです。加えて、江戸時代の大坂は豊臣時代の大坂と一致しません。豊臣時代の大坂の西端は四つ橋筋や船場のあたりでして、中之島をぎりぎり含むという感じでした。確かに秀吉が中之島の開発を行ったでしょう。しかし、中之島を商都・大坂の中心として、ひいては大坂を諸国の台所として発展させたのは間違いなく徳川家です。そうなると、明治天皇の仰せにある「国家のために多大なる功績を残した」として賞賛を受けるべきは、秀吉でなく徳川家だと思うのです。

 さらに言うと、大阪豊國神社の相次ぐ遷座も気になります。明治天皇が「豊国大明神を清らかな地に祀り、そのための社殿を造営せよ」と仰せられましたが、第二期大阪豊國神社は造営から僅か32年で遷座し、第三期大阪豊國神社は造営から僅か49年で遷座しました。しかも、それらの理由が大阪市中央公会堂の建設と大阪市庁舎の増築です。私は大阪豊國神社の相次ぐ遷座に、豊国大明神に対する崇敬の念を感じ取れないのですね。

 もう一つ気になる神社があります。かつて大阪府西成郡に鎮座した川崎東照宮です。こちらは家康の一周忌にあたる1617年(元和3年)に造営された神社でして、日光東照宮と同様に死後の家康を東照大権現として祀っていました。しかし、1873年(明治6年)に明治政府が川崎東照宮を廃止し、境内を接収し、大阪造幣寮(現在の大阪造幣局)の用地に転用したのですね。

 明治時代の大阪の財政界にも目を向けておきます。大阪豊國神社の独立を提案した大久保利武の父・大久保利通は薩摩藩の出身で、中之島の対岸の土佐堀川沿いに大阪株式取引所(現在の大阪証券取引所)を設立した五代友厚も薩摩藩の出身でした。また、土佐堀川のあたりで三菱グループを創始した岩崎弥太郎は土佐堀川の名の通り土佐藩の出身でした。薩摩藩や土佐藩といえば討幕派の筆頭ですね。

 これらを見るに、あくまで私の推測(というか妄想)ですが、第二期大阪豊國神社は討幕派によって持ち上げられた反徳川家の旗印だったと考えられないでしょうか。

1888年(明治21年)の『内務省大阪実測図』と現在のグーグルマップに川崎東照宮の範囲を示しました。1888年の時点で川崎東照宮の面影が全くありませんね。川崎東照宮の跡地の北半分にあたる滝川小学校は1911年(明治44年)11月から当地に存在します。グーグルマップの上部に見える大通は国道1号で、右半分が現在の大阪造幣局の敷地です。
左の写真は川崎東照宮の跡地・滝川小学校です。上のグーグルマップでいうと、川崎東照宮の西端(左端)の真ん中にある交差点から北東を向いて撮影しました。右の写真は廃社の直前に撮られた川崎東照宮の惣門(玄関にあたる門)です。現地の由緒書きに掲示する写真を見やすく加工しました。
大阪天満宮の星合池の畔に残る川崎東照宮の神輿蔵と、川崎東照宮の栄枯を伝える東照宮遷座記の石碑です。碑文によると、川崎東照宮の廃社の後に、神輿蔵が大阪造幣局の片隅に放置されていたようです。数十名の町民が資金を出し合い川崎東照宮の復興を図るも叶わず、せめて約300年にわたる徳川家の治世への感謝を忘れぬために石碑を立てたと記します。
大阪天満宮の星合池です。1574年(天正2年)の『石山軍記』によると、織田信長がこのあたりに本陣を構えました。左の写真の左奥に川崎東照宮の神輿蔵が見えます。


●大阪豊國神社のちぐはぐな足跡

 私が相次ぐ大阪豊國神社の遷座に豊国大明神への崇敬を感じ取れない理由をもう一つだけ書いておきます。

木村長門守重成表忠碑

 上の写真をご覧になってください。Part2で触れた木村長門守重成表忠碑です。この石碑が何を示すかと質問されれば、先述の通り第二期大阪豊國神社から第三期大阪豊國神社へと遷座した際の置き土産であると答えられるでしょう。では、質問を変えてみます。第三期大阪豊國神社は後に現在の第四期大阪豊國神社へと遷座しましたが、どうしてこの石碑を大阪城に移設せず、中之島に残したのでしょうか。重いからでしょうか? 大きいからでしょうか? どうもそうじゃなさそうなんです。そう思う根拠が第四期大阪豊國神社の境内にあります。

岡田平蔵招魂碑

 上の写真をご覧になってください。第四期大阪豊國神社の境内に立つ岡田平蔵招魂碑です。この石碑が何を示すかと質問されれば、どう答えられるでしょうか。

 実はこの石碑と豊國神社に何の関係もないのです。第四期大阪豊國神社の社務所によると、この石碑は江戸時代の中之島に建てられたもので、とある蔵屋敷の名残であり、第二期大阪豊國神社から第三期大阪豊國神社への遷座より早く、第三期大阪豊國神社の位置に立っていたのだそうです。つまり、先に岡田平蔵招魂碑があって、後に石碑を取り込む格好で第三期大阪豊國神社が遷座したのですね。

 では、豊國神社と何の関係もない石碑が、どうして中之島から大阪城へと移設されたのでしょうか。社務所によると、その理由が驚くべきものでして、何と中之島の第三期大阪豊國神社から大阪城の第四期大阪豊國神社へと遷座する際に「取り敢えず境内の付近にある造作物をまとめて持っていけ」と、石碑の由緒をよく調べずに移設したのだそうです。

 秀吉の忠臣・木村重成の石碑が中之島に残された一方で、秀吉と何の関係もない岡田平蔵の石碑が大阪城に移されたわけですね。本記事をご覧の方はどう感じるでしょうか。私はちぐはぐな足跡だなぁと感じました。

第四期大阪豊國神社の境内に立つ卓叟追思碑です。1881年(明治14年)に木村重成の子孫が建てました。このように、大阪城に移設された石碑があるわけですから、同じく木村重成を顕彰するにも関わらず中之島に残された木村長門守重成表忠碑が不憫に思えます。


「Part 4 豊臣秀吉が鬼門を封じるか」に続きます。
https://note.com/yoyoyonozoo/n/n93572b3ee813


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