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死ぬのは全く怖くない

1月も明日で終わりだ。
今週は少し忙しい。
助けてとコールした人から、半ば諦めかけていたなか、レスをもらった。
アポが取れた。
思えば昨年の下半期ぐらいから、随分と沢山の人に訴えては噛みつきを繰り返してきたものだ。
ダイバーシティー(多様性)やインクルージョン(包摂性)等と言う言葉がキラキラと踊る時があるが、かつてのマックのスマイル0円みたいなもので、腹を空かしている人の前では何の役にも立たない言葉遊びだと思う。

多様性も包摂性も良く理解して居ない人が、まるで子供がヒーローもののバッジをつけて強くなった気持ちになる時の様に、勝手に最先端を行っていると自負している風がある。
大体、多様性も包摂性もそんな言葉では語り切りない程、生々しい現実があるはずだ。
本当に向き合っている人はそんな陳腐な言葉を多用するとは思えない。

しかし、かと言ってマックがホスピタリティー無く淡々とハンバーガーを売っていれば良いのかと言うと、そういう事でもない。
期待値に対する責任とバランスの問題であり、それこそ、TPOの話だと思う。

アポが取れたその人には、「正しい声を正しい人が拾ってくれないと、そうした声は社会におけるノイズとして、かき消されていくだけで、真っ当さをどんどん失っていく様に思います。」と訴えかけた。
殆どの人は私の真意が分からないと言うか、何言ってんの?という世界だと思う。
しかし、その人は私の真意を理解した上でアポを取らせてくれたと信じたい。

こうした人生になって、今後の人生の展開は全く不確かなものになった。
誤解を恐れずに言えば、死ぬのは全く怖くない。
しかし、「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」と言う様に死の覚悟を不断に持する境地に達している訳ではない。

私が突然死んだら娘は悲しんだだろう、経済的に不安になっただろう、しかしその娘が、もう死んでこの世にいない。
だから、私は別に死ぬことに抵抗感がない。
そんなニュアンスである。

頑張って頑張って、あの世で亡き子に会った時、「頑張ったね」と言ってもらいたいという趣旨の話を聞くことがある。
そういう考え方もあるだろう。
それぞれである。

私は全くその様な気持ちにはならない。
あの世で、亡き娘と会えるなどと思った事は無い。
死とはすなわち無であると思っている。
だから、今も娘が側で見守っている等と言う考えは一切ない。

ただ、娘ならどう思うだろうか、私をどう評価するだろうか、と言う事は常に頭の中にある。
娘ならどう笑っただろうか?どう怒っただろうか?そしてどう悲しんだだろうか?
そう言うことは常に考える。

今週は仕事の当番業務もある。
昨年、裁判を前に、裁判の準備と社会人としての何事も無い顔とを使い分けるのに苦労した。
今年は刑事裁判はもうない。
しかし、素の自分と、社会人としての顔とを使い分ける事は相変わらず難しいと感じている。



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