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「お気の毒です」の先を考えようぜ

社会は良心に基づいて構成されている。
私はその様に信じたいのだが。。。

ある人が、他者から理不尽に命を奪われる事を殺人と言う。
そう理解している。

殺人の手段には様々な方法があるだろうが、「理不尽」に命を奪われた以上は手段を問わず殺人だと思う。
しかし、この国は、殺人について様々な解釈の幅を設けている。
殺意の有無、故意犯か、過失犯か。
事故なのかどうなのか。

殺人の犠牲になった本人及び被害者遺族が、その要因を理性的に理解する事は酷な事である。
過失であろうが、事故であろうが、本来は失われるべきでなかった命が、不当に失われた苦しみや憎しみは、仇討ちしてでも果たしたい痛切な思いである。

しかし、日本では仇討ちは合法ではない。日本人として、日本の中で生きていく以上は感情のままに行動する事はできない。決められたルールに則って行動していく以外に実際問題、方法はない。

だが、殺人は、社会の良心が想定し得なかった、「まさか人の命を奪うような事はしないよね」、「命は尊いものだと当然理解して生きているよね」と言う「当たり前」から外れた社会通念上理解不能な行動によってもたらされた「想定外」の事象である。
社会の多数派は、不幸にも「想定外」の事にあたってしまった人を、不運な少数派と認知し、そして、ぐっと心を痛めた後、何となく終わりにしてしまってはいないか。

『社会は良心に基づいて構成されているのが大前提で、その良心がよろしく回っている以上は、多少のバグで犠牲になった人は、そのバグに拘ってはならない。裁判所、検察、警察と言う、社会の良心を監督している(はず)の決定には、素直に従わねばならない。例え、身内を殺されていたとしても』

そんな雰囲気が確かにある、と娘を殺された当事者として感じる。
その様な雰囲気を強いてい来る人の中には政治家や役人も含まれる。

確かに、防ぎようの無かった命の喪失、つまり「不慮の事故」も、世の中にはあるとは思う。
しかし、我が国の社会通念上、明らかに奪われるべきでなかった命が日々失われている事は間違いがない。

すなわち、経緯から考えて、当然に不慮の事故として処理してはならない犯罪についても、必要な社会的な制裁、すなわち刑罰が下されておらず、その事はバグとして特段な検証もされぬまま完結されてしまっているのではないかと、当事者として感じるところである。(交通犯罪は特に)

これを、基本的に社会は良心に基づいて回っている、だから多少のバグが生じるのは「コスト」として致し方ないと言う無関心で放置して良いのか?

国は社会通念上と言う言葉を盾にして課税してくる、しかも課税に関しては徹底的に争ってくる。それに対して、犯罪対策という点については取り組みが遅れていると言わざるを得ない。

多くの人にとって、犯罪被害はまさか自分の身に降りかかる事はないと思う事であろう。被害にあった人は本当にお気の毒な人達だと、同情して、平常運転に戻ると言うのが一般的であろう。
自分の身に降りかからない限り、それは、誰しもがその様に思うだろう。

実際問題、当事者以外の人が具体的な問題意識を持つことは不可能だと思う。
しかし、その当事者の数、訴えのボリュームが相対的に少ないからと言って、それを特殊な問題として放置して良いのだろうか?

体験としてマイナーだからと言って、パスしてよいのか?

社会は良心に基づいて回っていると信じていたのに、実際に自身がそのバグにあたった時の理不尽を知る当事者になっても、「社会正義はあると思っていたのに!」と恨みつらみをSNSで吐くぐらいしか出来ない世の中を放置して良いのか?

娘を理不尽に殺された(守れなかった)父親の肌感覚の領域を出ない戯言ではあるが、この国では、自然災害以外で命を理不尽に奪われることについての、国民の期待値(想定値)と、実際の乖離はかなり大きい。

非当事者が悲しみのエピソードを肝に銘じたところで、実際に起きる理不尽への手当ては出来ないのである。

政治家や役人は、個別の事案については差し控えたい、と決まり文句の様に言うが、個別の事案にアクセスしなくてどの様に秩序を維持・改善できると言うのか。

バグたる虫が湧き上がると、慌てて喫緊の課題として取り組まねばならない等と言い、鼻白む。

問題への取り組みに係る維持・改善は個別の事案に対峙しない限り、気づきも変革も生まれない。

社会の良心は、たまたま自分の番が回ってきていないと言うある種の奇跡の上に成り立っており、その奇跡の軌道から弾き飛ばされた時、現状は、ただ、「お気の毒です」と言う言葉を繰り返し聞かされるだけな気がする。

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