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明石の風、桜、そして鯛

明石駅のホームから見える明石城を写真に撮り、娘のキッズ携帯に写メを送った事をよく覚えている。
2019年の事だったのではないだろうか。
90分程の仕事の為に、丸一日をかけて明石へ行くと言う殆ど移動で終わるみたいな仕事であった。
その時、もう明石に来ることは当分無いだろうなと思ったように記憶している。

昨年(2022年)12月、私は再び明石の地を踏んだ。
ハートバンドでお会いした曽我部とし子さんにお会いするため。
明石駅のホームからは相変わらず明石城が見えた。

『大事件が起きるたびに繰り返される「悪者探し」に違和感を抱く。そんな社会の風潮に埋もれた「小さな声にこそ真実がある」』

1996年(平成8年)6月9日、曽我部さんの長男、雅生(当時24歳)さんはJR明石駅の南路上で、白昼、通り魔により背後から包丁で刺され、命を失った。
犯罪被害者等基本法が成立したのが2004年。
それ以前の1996年当時、犯罪被害者への支援は殆ど何も整備がされていなかった事は想像に難くない。

曽我部さんは、日常の軌道から突然弾き飛ばされて、暗転と混乱の中、1998年から「風通信」と言うミニコミ誌を独自に発行し始める。
今では、ブログや様々な発信手段があるが、時はWindows98が出た頃である。
「風通信」は2020年8月 全24号をもって最終号となった。

昨年11月にハートバンドの会場に向かう道すがら、偶然にお会いしたのが曽我部さんであった。
そこからすぐにメールのやり取りが始まり、「風通信」全24号もお送り頂いた。

1998年10月発行の第1号にはこんな事が書いてある。

「平成8年6月9日、私の長男雅生24才は白昼通り魔殺人という理不尽な事件によって短い生涯を閉じました。最愛の息子の死によって私は知りました。人間はいかに死ぬかではなく、苦しみにのたうちながらそれでも生きねばならぬこと。」

「風よ雅生に伝えておくれお母さんは生きていると。私は被害者の遺族になって初めて知ったことや、被害者の心情をありのまま伝えて行きたいと思います。」

2000年6月発行の第3号にはこんな事が書いてある。

「被害者が放っておかれ片手落ちになっている状況を十分に言い尽くせないような気もしています。この風通信をとうし、被害者の率直な気持ちを書き、被害者間で交流すると同時に一般の方にも読んでもらうことで、被害者の気持ちを少しでも理解していただき、被害者を好奇な目で見ることがない社会にむけた貢献ができればと思っています。」

2005年2月発行の第8号にはこんな事が書いてある。

「風通信が出来上がった時はうれしい。(中略)でも封筒に宛名を書いて1部ずつ詰めている時には、一体これは何になるのかとむなしい。でも「継続は力なり」と思い直す。」

2008年8月発行の第13号にはこんな事が書いてある。

「テレビに出ていたね、新聞に載っていたねといった言葉はかけられるが、どのような事を訴えたのかまで聞き及んでくれる人はほとんどいない。それでも繰り返し繰り返し訴え続ける。何故だか分からないけど、目的が何なのかわらないけど。」

2014年5月発行の第20号にはこんな事が書いてある。

「20年近く大学の先生をはじめたくさんの方々の意見を伺いました(テレビ、雑誌を含めて)。皆さんそれぞれに持論を展開されますが、私にとってそれはまるで永遠に完成しないジグソーパズルです。片隅に一片のピースをはめ込むようなものです。誰もが完成させる責任感等持ち合わせていないように思えてなりません。」

曽我部さんの闘いについては、下記の共同通信の記者による記事が詳しい。


私は「風通信」を全て読み、付箋を貼り、マーカーを引いた。
曽我部さんのその時の、思い、考え、がストレートに綴られていた。
そして、曽我部さんに直接じっくりお話を聞きたいと思った。
昨年12月に、明石の地で曽我部さんの話を聞く事ができた。

曽我部さんはとてもチャーミングな方である。

その後もLINEなどで取り留めもない、しかし、当事者にしか出来ないやり取りをポツポツと重ねさせて頂いた。

2月下旬、曽我部さんからお葉書を頂いた。
曽我部さんは小料理屋のおかみである。


私は、刺身と冷酒を合わせるのが大の好みである。
しかも、刺身は白身がいい。
なかでも鯛が一番好きだ。
昨年12月に一とくで食べた明石の鯛は、今まで食べた鯛の中でも格別の物だった。

曽我部さんから頂いた味のあるお葉書を読み、また明石の鯛を食べに行きたくなった。

亀岡の中江さんを取材する産経新聞(神戸総局)の倉持記者に、来ます?と声をかけると、来ると言う。

令和5年4月3日(晴れ)、明石駅のホームからは明石城が変わらず見えた。
待ち合わせの時間まで少しあったので、明石城に行った。
明石城周辺は明石公園と言う公園になっており、大きすぎず、小さすぎず、何とも丁度良い塩梅で人々が思い思いに散策していた。
桜の名所でもあるらしく、パラパラと桜の花びらが公園入口にまで広がっていた。

明石公園

城の石垣に沿って登って行き、櫓(やぐら)辺りまで登ると明石駅周辺が一望できるようになっている。
気温も丁度良かった。
気持ち良い、爽快だと言う気分にはならなかったが、良い街並みだなと思った。

少しベンチに腰掛けて休むと、正面には幹が太く、ずんぐりむっくりとした桜の木が1本あった。
まじまじと見た。
2019年の春に見た以来だろう。
2020年春、桜は見たくない、目にしたくない花となった。

美しいとか、やはり桜は良いとか、そういうことは思わなかった。
ああ、桜をまじまじと見る時が来たんだなと、そう思った。
見れる時ではない。見る時が来たのである。

待ち合わせの時間になり、曽我部さんと再会をした。
少し、緊張をした。
待ち合わせ場所の明石駅は事件現場なのである。

曽我部さんはえっちらおっちら歩いたらお食事にも丁度いい時間になります、とにこやかに我々を散歩コースに案内してくれた。

錦江橋を渡るとその昔は遊郭があったと言う出島の様な場所に今はその名残も無くマンションが立ち並んでいる。
船着き場になっている海沿いの遊歩道を歩くと、曽我部さん曰く穴場だと言う桜のトンネルがある。
曾我部さんに、事件以来、今年初めて桜を見る事が出来たんですよと告げると、まだ3年ですから、私なんて桜が咲く度に憎くて憎くてしょうもない気持ちになったもんですと、静かに言われた。

そうですよね、と静かに答えた。

特に会話が弾んだわけでも無い。
弾ませる必要も感じなかった。

穴場の桜は見事だった。

明石海峡大橋を一人、ぼんやりと眺めた。

憎くて憎くてしょうもない気持ちになる事を知っている曽我部さんと桜を見る事が出来て、それは私の中の一つの過程における区切りになったのかなと思った。

同行してくれた倉持記者と3人で


店に伺い、相変わらず格別の明石鯛や白身魚の刺身に明石の冷えた地酒を合わせ、倉持記者に「政治家や役所は個別の事案にはちょっと…などと、すぐ言うが、個別の事案の検証からしか学びも気づきも生まれないんだ」と管を巻いたりしながらいつも通りにガンガン飲んだ。刺身をお代わりもした。
おかみの曽我部さんは時折、するどい眼光で倉持記者に質問などする。
覚悟とKeepの目である。

曽我部とし子さん

妻との間では、「としちゃん」と呼ばせて頂いている。

事件から今年で27年。
としちゃんは、今も、訴え、闘い続けている。


同行してくれた産経新聞倉持記者の記事



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