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気分が落ちるといつも嘘をついてるような気がしてくる

日によって気分が違うと、同じ場所に生きているのに全然違う場所にいるような気がします。場所ばかりでなく自分すら全然違う人間みたいに、感じ方も考え方も違うし、発言も行動も違うのです。昨日は幸せだな最高だなと言っていたけれど、今日は最低だし地獄だと思ったりしてね、これほどまでに世界は変わるのかというくらいに、全く違った場所になります。

最高の今日と最悪の今日の違いって、単に気分でしかありません。もちろん、最高なこと最悪なことが起こるという、外的な要素もあるだろうけど、気分によればたいていの最悪はどうでもいいことにもなるし、たいていの最高はどうでもいいことにもなります。気分によって最高だとか最悪だとか言っているだけです。幸せには必ずしも根拠がいるわけでもないけれど、あまりに信ぴょう性もなくグラグラと揺らぐから、何を言い、何を感じても、自分が嘘をついているような気がします。

実際に記憶もおぼろげです。皆が大事に覚えていることを、私の脳はどうも大事だと分類しないのか、話のつじつまが合いません。私の記憶というのは、イメージの塊のように存在していて、思い出す時、映像に近いそれを言葉にしています。私としては確かに記憶なのに、抽象的な断片を繋ぎ合わせるような頼りない言葉にしかなりません。確かなものとしてその存在を感じているから、狂ってるわけじゃないよと自分では思うけれど、それを証明する言葉が出てこないのです。

いつも嘘をついている気がする。1+1は2だよというような確実なことを、私自身について話してみたい。嘘つきは泥棒の始まりだと、当たり前の倫理があるから、私はいつかすべてがばれてつかまってしまうんじゃないかという後ろめたさがあるのです。

坂口恭平さんは、作り話ですって言って話しだすといいって言ってたな。これは私には大変有益な方法です。こうやって話し出すと、実は誰もが作り話の中を生きているかもねいうような風が、私と相手の周辺に小さく静かに吹く気がします。その場が蜃気楼のように少し揺らぐのです。たいていの人は気づかないかもしれないけれど、気が付く人もいるかもしれません。

常にどんどんどんどん思考は走っています。停滞しているように見えても、きっとかなりの速さで思考が走っているし、魂が急いて、何かをつかもうと心臓のあたりから手を伸ばしている。その調子で私はその時その時の嘘をつき続けているのです。あきれられて、バカにされているかもだけど、私はこれを止めることができない。嘘が止まらないのです。私にとっては本当の嘘を、私は信じる時が来るのだろうか?思考の速さで体を使って駆け回った時に、私はやっと、本当に疲れたと言えるのだろうか?

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