重み

 言葉は励みになる。言葉は武器になる。

 自分の言葉にどれだけの重みがあるのか。親の言葉に子供は重みを感じる。教師の言葉に生徒は重みを感じる。上司の言葉は?政治家の言葉は?

 私生活で声を荒げたことなど人生で一度もないが、教師の仮面を被ったときには何度か大声を出したことがある。相当な体力を使うがその分その言葉が励みになるならと。

 私の言葉の受信者は皆同い年なはずなのに、捉え方は皆違う。言葉を受け止め、笑顔を見せる人もいる。本当に武器を向けられたが如く敵意を剥き出しにする人もいる。

 リビングでなんとなく流れるニュース。どこかの偉い人が自信満々に語っている。それに多くの人が翻弄されている。

 言葉に対する責任は発信者と受信者が連帯して負う。発信者にとっては自分の言葉が持つ重みを、または持ちうる重みを考える責任。受信者にとっては言葉を(情報を)主体的に選択し、理解する責任。理解するとは勿論ただ受動的に招き入れるだけでなく、自分なりに分解すること。それが出来ない人は重みを履き違える。

 蛇口をひねれば水が出る。飲むこともできるし、植物に与えることもできるし、そのまま一度貯めておくこともできる。しかし、ひねったままでは用途を考える間もなく水は溢れ、ただ無駄に流れていく。

 いつ水を貯めるのか。どう使うか。何に使うか。私たちは自分の意思で自由に選択できるはずである。

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