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#瞳 "MindFulness"10月6日(日)no.21

どれだけの時間を自分の時間にして
自分の思考の上に費やす事ができるのだろうか?

大切なこと

水面場をイメージしてみた
どの様な受け溜め皿になっているかは
人其々容量も違うけれど
与えられた知識を飲み込むのは
皿の上に一度据え置くのが
人の相変わらずの常なんじゃなかろうか

蛇口を捻ってそのまま下水路に流す様に
人としての培いの整備が為されていたら
そんなに苦労はしない
コンディションが良い時も
滞らないとは言いきれない

寧ろ大半の人は自分の水溝も
掘り当ててないのじゃなかろうか
それに加えて皿の上に一度受け入れる事を
禁止にしてそれに加勢を求める様な
個性の人も中にはいる
線が自分の瞳とは到底思えなかったりする

こんなもん太陽避けでいい
"すだれ"だっけ?

その人は受け入れる前に結局受け入れられない
過去から黄色看板がたってるのだろうか?

確かに受け入れてばかりでは
自分の意思で情報を選択することが出来ずに
溢れて枯渇した己で闘うことになり
防波堤は役割を果たせない
最悪は不信になるであろう

自己不信と言った方がそれっぽくきこえる

色々な事で溢れる情報網は
誰が誰に対して伝えたかったの議論がない

もはやそのマジョリティの一員になって
嗜むという事は先ず過去からも変貌はないのだろう
だって
不特定多数の人に音楽を届けてる
アーティストはファンの生活まで
足を踏み入れず
それを想像の上で成り立せるはずではないか

必ずしも正解だけではない
どういう姿勢でどの様な目線で
疑念は持った方がいいんじゃないかなと思った

それ程までに心の攫われ方によっては
人の感情と共に瞳を落とすことに成りかねない

いや時間を選べば視線を落とす事だって
必要性がないとは言い切れはしない

ぼくが言いたいのはTLっていうのは
時間と姿勢も自ら用意しなくては
心が幾つあっても足りないとさえ言い切れる

軸というのは必死に磨いてこそ
選択的に時間を自分で動かせるのかもしれない


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