ハッカージャパンとその頃の自分を振り返る17(2002年-4)

(2014年1月22日 のblogより再掲 ※元のタイトルの番号が間違っているので修正しています)

来週から働きに行くことになりました。早く区切りを付けないといけません。

難航していた「爆裂ツール裏ベスト100」と並行して、HJの1月号を編集していました。1月号ではこの頃飛ぶ鳥を落とす勢いだったofficeさんに初めて原稿を書いてもらいました。10月に開催されたA.D.2002で直接口説き落として(というほどのものでもないですが)原稿をお願いしたのです。そういえばこの後ネットでofficeさんの個人情報みたいなのがよく掲載されていたのですが大間違いで笑った気がします。原稿を書いてもらうとよほどのことがない限り振込先となる本名と見本誌の送付先となる住所がわかることになります。

特集もA.D.で知り合ったKarisumaさんにたくさん書いてもらっています。つかこの号特集1つしかなかったんですね。

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ちょうどこのころはフルディスクロージャーとかいう単語が流行っていました。それから10年以上経った今、日本では脆弱性情報がディスクローズされることはほとんどなくなっています。セキュリティ会社が握りこんでいるのでしょうかね。

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それはともかく、さすがにこの数年の激務がたたってきたのか身体の具合が悪くなってきます。理由はよくわからないのですが寝ている最中に胸が苦しくなって突然に目を覚ましたことが何度もありました。これはもしかすると身体が悲鳴を上げているのではないかと思いましたが仕事は待ってくれません。たぶん校了すれば休めるから、もうすぐ冬休みだからとなんとか仕事をこなし、何とか両誌とも校了にこぎ着けます。

ようやく長かった1年も終わり、休みなく働いてきたので、ここで少しは休憩できるのかと思ったのですが、会議の後ねぎらいの言葉もなくいきなり期末までに出す次の書籍の話をされます。これも僕が担当だそうです。

ああ、もうこれはダメだ、俺の健康よりも予算の達成の方が大事なんだろうな、と思うと同時に、大阪で新聞配達をしていたとき、隣の配達所で働いてた人が朝突然死していたのを見た隣の所長が

「誰がこいつの新聞配んねん!?」

と叫んだという話を聞いて、こういう人にはなりたくないよねと配達所の人たちと深くため息をついたことが脳裏をよぎりました。

その後の会話は適当にやり過ごし、俺、この書籍終わったらこの会社からおさらばするんだ、と思いながらネットで転職先を探し始めます。そんな年末でした。岩手の温泉で年を越しました。

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