自分に課した「縛り」

毎日、自分に課した義務のようなものとしてnoteの投稿をしていたけど、ちょっとしたことでそれが途絶えた。

途絶えたから義務のような「縛り」が解けて、書くのも書かないのも自由な環境になったわけだ。

それでも書くだろう、と思っていたけど実際はそうでもなかった。

メモ程度のことは書く。スマホのアプリやノートに記録している。

それと、まとまった長さの文章を書くというのはまた違う作業のようだ。

「書く」と縛りを持たないと、自ら進んで書かないみたいだ。

自らに縛りを設けるのは、実は習慣化のためには重要な作業のようだ。

書かないと書かなくなる。

これに似た経験を少し前にしている。

話さないと話せなくなる。

言葉を発していないと、適切なテンポで適切な言葉の選択が難しくなるのだ。

上手く話せる人は、たくさん話している。

文章もそうなのだと思う。

上手い文章を書く人は、とにかくたくさんの文章を書いているのだと思う。

たくさんの文章とまでは言わないけど、1000~2000字くらいの微妙な長さの文章を600日程度、続けて書いていた。

その時は、その量の文章を書くのに心理的な制限はなかった。文章の内容や質はたいしたことないような文章だったと思うけど。

縛りを解いて、なんとなく毎日書かなくなって、まとまった量の文章を書かなくなって、ふと気付いたら長文を書くモチベーションが薄れていたように感じた。

例え自分が自分に課したものであっても書くという「縛り」は強烈な作用を持つのだとわかった。

同時に、訓練にもなっていた。

これが他者が他者に課す「縛り」だと、別の意味が入ってくるから違う結果に結びつきそうだが。。

長文を読むのは好きだ。Twitterのような短文も好きだ。

短文ばかり読んでいても、久しぶりに長編小説を読んでも読み進めていける。

紙であっても電子書籍でも。

けれど「書く」に関しては、「書かないでいると書けなくなる」のだ、たぶん。

別に作家なわけではない。小説やエッセイを書いて販売しているわけではない。

書けなくなっても大きな問題はないと思う。

けれど仕事上、「文章を書く」場面は多いので、「書けない」のは問題でもある。

内容や質を問わず、書けるレベルであり続けていたいとは思うので、再び縛りが必要なのかもしれない。

偉そうに言ってはいるけど、書いているのは日記レベルなのだけどね。。。


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