見出し画像

午睡




用あって県庁所在地まで出向き、その帰途のこと。
駅近くで昼食を済ませて電車の発車時刻を見ると一時間以上先である。疫病のため減便しているのか、あるいは元より昼間は本数が少ないのか、いずれにしても随分な田舎だ。県都と第二の都市を結ぶ鉄道が一時間以上走らないとは。のんびりすぎて思わず笑みがこぼれる。


さて、少しでも時間があるなら書店を物色することが常である。少しの自慢にもならないが本屋なら何時間でもいられる自信がある。日頃よく読む雑誌から、文芸新刊、文庫、専門書、洋書、学習参考書から絵本、その店の売れ筋、客層に至るまで、興味は留まるところが無い。時間さえあるなら端から端まで、その本屋を味わい尽くす。月に二三度は地元の大型書店に足を運ぶが、たまには違う本屋も面白い。旅先であっても本屋があれば必ず覗いてみることにしている。そしてその日は、駅前の商業ビルの二階と三階が書籍と文具などを扱う、よくある中型(大型まではいかない)書店をぶらついてみることにしたのだった。


興味を引く本があれば、電車の中で読もうと考えた。なにしろその町から僕の暮らす町の駅までは一時間以上かかる。穏やかな午睡に抱きとられて過ごすのも悪くはないが、列車に揺られながら本の世界に入り込むのはなお良い過ごし方だ。一冊との偶然の出会いがこれからの人生を変えることだってあるかもしれない。


その日、文庫の棚で目に留まったのは、寺田寅彦の随筆集だった。へえ、こんなのがいまどき新刊で(昨年の)。少しの驚きと久しぶりに目にした名随筆家にして物理学者の名前に興が湧きぱらぱらと頁を手繰った後、午後をともにしようと買い求めた。八百四十円也。いつも思うが本は実に安価な心の旅だ。


駅のホームのベンチに腰掛けて、電車の到着を待つ間、早速本を開いた。が、何か違和感を感じるのだ。本当に寺田先生の本なのかなと書店でかけてもらったカバーを外して表紙を見たり。そして違和感の正体に気付いた。新仮名遣いなのだ。寅彦と言えば旧仮名に決まってると思い込んでいたのに、完全に新仮名に改められた上ふりがなまで丁寧に振ってある。確かに読みやすいかもしれないが、どうもこれでは雰囲気がでない。モノクロ写真に色を付けたりする技術があるけど、あれは当時の世相が鮮明に伝わって(ものによるけど)いい。古い映像のリマスタリングも(ものによるけど)いい。ただ仮名遣いを改めてしまうのはなあ、と自分勝手に思ってしまう。


実のところ、第一印象の問題なのだ。漱石も龍之介も最初から新仮名で読んだ。だから今でも新仮名で読むのは全く問題ない。でも寅彦も安吾も百閒も初見は旧仮名遣いで読んだと記憶している。だから寅彦とは僕の中では旧仮名で書く作家なのである。旧仮名遣いからうまれる独特のリズムと時代の空気感に、むせるようにして酔っていたことを思い出して、それにまた浸りたいと、無意識にそう思っていたことに気付かされた。


まあ、今後発行される書物が旧仮名遣いのまま世に出るなんてことはもうないのだろう。そんな本を読みたければ実家の物置の奥をあさるか図書館をあたるか、古本を探すしかない。そしてこんなことを曰う人間はあと何十年か、いや何年かするといなくなるだろう。


結局僕は一時間の電車の旅の中で、新しい寺田先生と出逢って、新仮名はらくちんですいすい読めるなあ、ふりがなもありがたいなあと、なんとも日和った感想を持ったのだが、最後の十五分に訪れたやさしい夢魔の中には、古い本のすえた薫りに誘われるようにヒラヒラと飛び狂う、時代錯誤な蝶に変じた僕がいたのだった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?