Eleni Karaindrouのメロディ




この季節になってくると、きまって聴きたくなるアルバムというのが幾つかあるのだが、その中にギリシャの作曲家エレニ・カラインドルー(Eleni Karaindrou 1941-)の映画音楽がある。例えば「こうのとり、たちずさんで」「ユリシーズの瞳」「トロイアの女」などだ。(それぞれ92、95、02年作。全てECM)
あいにく私はテオ・アンゲロプロスの映画自体に触れる機会がこれまで出来なかった、というか何となく今まで保留してきたのかもしれない。批評などを先に読んでしまっている。いつか必ず観ようと思っているのだが。

ところで、上掲したカラインドルーの音楽はもっと個人的なところで響いてきた。私がある時期に暮らしていた町は、都市部郊外に近く、そこから各駅停車で二駅ほど乗れば落ち着いた、瀟洒な風情の田舎町になった。少し侘しさも感じられる静かな古い町だった。

この町には今も床しさをおぼえるのだが、おもむろに駅をはなれ、遠回りして、まるひと駅ほどを週末などによく散策した。写真も撮った。私は昔から観光名所に全く関心がない。寧ろ避けてきた。猥雑な下町の繁華街や商店街が大好きな一方で、趣きのある、心に適う淋しい田舎町を一人で歩く時間は、ただ休息というような言葉では済まない。もっと何か心(や体)の深い所にある欲求のようなものに触れていく。

これらはもう何年も前の事だ。九月下旬頃でも肌寒かった。そして頻りに冷たい雨が降っていた。あの日々と同じ時間をいつか取り戻せるのだろうか。

エレニ・カラインドルーの紡ぐ「こうのとり」の幾つかの旋律が、この田舎町外れの道々の情景と重なり合っている。当時CDを中古店で入手したばかりだった。あまり状態のよくないCDだったが、そのぶん愛着を感じてよく聴いていたし、今ももちろん手元にある。

彼女の音楽の特徴は、先ず弦楽器の通奏低音にある。そこへ次第に喚起的な、厳粛な旋律が重なってくる。そしてこれが幾つかのヴァリアントをつくり、執拗に反復される。終始沈鬱な雰囲気に充たされてゆくなかで、非対称的(asymmetrical)な構成の同じ曲が何度も登場する。(例えば「こうのとり」では“難民のテーマ”が八回繰り返される。変奏を含めればもっと多い。)また、旋律が奏しきられず、ぽつんと取り残されるようにして終わる曲もある。
アンゲロプロスが一体どの様な世界を描き出しているのか。この音楽がもっている特質から逆にイメージできるような気もする。

だが、私には何よりもギリシャ人の彼女が、日本の昭和時代の情感が強く想起される旋律や曲風を持つ作品を多く書いているように感じられるのが不思議でならないのだ。…

私が、自分で何とか守り続けてきたものがある。それらもだんだんと時代に、社会に、文化に侵蝕されてゆくのだろう。月並みな云い方だが、「癒されたい」。心を鎮めたい。そうしたものを求めて探している。学生時代に少しかじって以来全く無縁に近かったクラシックへ今、関心が向いている。ひとつのきっかけが今年あった。

私の知人にクラシックの指揮者の方がいて、関西圏をベースに広く活動されている。オーガナイザーでもあり、名前を知っている人は多くいる。その方との折々の交流の中で紹介された演奏会の記録動画を、しばしば夜半に聴いてきた。それらの作品を通して、これからの季節にラヴェルやフランク、フォーレの音楽がシンクロしてくるかもしれないと感じたりしていた。 

遠い遥かな記憶を喚び醒ましてゆく、そんな文化が根こそぎされてしまう時代を想う。せめて、自分で守ってきたものは、これからも大切にし続けたいと考えるのだが。