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香りの言葉

先日、塚本邦雄氏の「翡翠逍遙」(湯川書房 1976年)を読んでいたら、以下のくだりが出てきた。

「私はかねてから図版などでしか見たことのないヘリオトロープに憧れていた。和名が木立瑠璃草、helio-とは「太陽」の意の連結形で-tropeと続けば「日向性植物」、いつの間にか、その中の木立瑠璃草Heliotropium arborescensだけを指すようになり高名な香水の原料である。

(「躑躅嫌悪症」原文は正字体、旧仮名遣い)

ヘリオトロープ。私もこの花に長く憧れてきた。といっても花を実際に見てみたい、芳香を体いっぱいに充たしてみたいという思いがないわけでもないのだが、寧ろこのヘリオトロープという語感そのものに惹かれてきたというべきかもしれない。上掲の塚本だけでない。ここでさらに手元の一冊のエッセイがよぎった。長野まゆみ「ことばのブリキ罐」(河出書房新社 1992年)で、久しぶりに棚からとりだしたが、次のような箇所がある。

「文章の中で色彩の表現をするとき、意識してカタカナ表記を避けている。色を表現する繊細な日本語が忘れられつつあるという危惧と、漢字とルビの行間で遊びたいという気持ち、それに学生時代カタカナ名をもつ西洋絵具 ポスターカラー翻弄ほんろう された記憶が蘇るからだ。一方で、クリムソンレーキ、ヘリオトロオプ、オペラ、バーミリオンなど捨てがたいカタカナ名もある。」

(「水紅 ときいろのはなし」)

両氏はそれぞれ短歌、小説の世界で言葉を磨きぬいた末の結晶のような作品を生み出した稀代の美意識家達だが、この花について似たような指摘をしているのが興味深く、面白かった。

いま、しばらく目を閉じ、改めてヘリオトロープと口にのぼらせてみる。この言葉をはじめて知ったのは高校の頃読んだ江戸川乱歩の、確か「化人幻戯」だった。もう文庫本を手放していて手元になく、作品をあたれないのだが、重要な登場人物の婦人がヘリオトロープの香水を使っていて事件にこれが関係してくる筋だったはずだ。作品全体が猟奇と退廃、官能の美に充ちていたのを憶えている。舞台が戦時中であり、反社会性のきわみを乱歩は描き出していた。そこにぞくっとなる妖艶なヘリオトロープの匂いが漂っていた。長く再読していないのだが筆者がこの最初の印象を忘れられないのも当然かもしれない。

ここにもう一つだけ引用したい。十九世紀の詩人クリスティーナ・ロセッティの詩「花言葉」から

「赤き薔薇 白き薔薇 盛れる薔薇は
よろこびの花。
忍冬すいかづら  花の
高くかざすは
愛の花とや。
ほのかにも 甘き香のヘリオトロープ
望みの花よ。」

(「クリスチナ・ロセッティ詩抄」入江直祐訳)

と続き、「濃菫こすみれ の かぐわしく 匂へるものを 死の花といふ。」で歌いおさめる。こうして読めばロセッティの花言葉にも官能と退廃の匂いが微かにたちあらわれてくる。筆者もまたヘリオトロープに憧れているが、実際の花を知らない。そこでさっそくグーグルで画像検索しウィキペディアを、と思ったが、今は止めた。冒頭塚本邦雄の随筆は以下が続く。

一度はわが手で栽培したいものと考えていた。そして去年、とうとう種子を見つけて播いた、種袋にはまこと瑠璃色の、紫草科特有の穂状の花をぎっしりつけた、可憐な花の肖像が印刷されていた。おっかなびっくり、周到な注意を払って間引き、定植し、成長を見守っていたが、そのような配慮は更に無用の、鈍感なくらい強靭な草だった。やたらに水を欲しがる以外ほとんど手がかからず、梅雨のさ中に三十センチ ばかりに伸び、晩夏にやっと紫の穂が出始めた。全体にぼさっとして野草じみ、花穂も出し惜しんだような格好で、たしか「芳香を放つ」とあったのに、鼻を近づけてやっと香の判る程度、別にどうといったこともない退屈な草であった。

いずれどこかで花の、草の匂いをかぐ機会ができると思う。だが実物がどうだったとしてもヘリオトロープという語から立ち上がる芳香は変わらないだろう。私にとって、大切に蔵っておきたい何かがこの花のなかにはあるようだ。