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美容業界オンリー24年目の営業マン:田中優勝の『やればできる!』な美容業界歴

生年月日:1975年4月5日

岡山県出身。福岡、岡山、東京と、様々な地域に居住し活動後、現在は全国各地に出没中。新型コロナの影響で、2020年4月から主な活動はオンライン化しておりますが、全国どこからでもお問い合わせ・ご相談は受付中!

(西日本の美容業界で、最もZoomを使っていると自称しております。)

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エクシードシステム株式会社の営業マン。

25歳の時に、美容サロン専門ポスレジシステム販売の営業マンとなる。最初の福岡での新規エリア開拓は“撤退”という結果に終わったが、29歳で再チャレンジした東京営業所では、スタッフ1人(自分)で顧客0からスタート。46歳の現在、恵比寿の東京オフィスをスタッフ9名・お取引サロン数は1,000軒以上へと成長させ、自身は全国の様々な美容業界関係者との活動を続けている。

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2019年6月25日、営業マンでありながら、自身のこれまでの経験から、美容サロンの“リピーターの重要性”という“当たり前”を、熱く綴った著書『ゆるガチ集客』を出版。(➩髪書房出版書籍購入サイト

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現在は、東京オフィスを後身に託し、弊社最新サロンポスレジシステム➩SalonAnswerを提案する営業マンとしての活動を続けながら、全国各地でセミナー・講習・Webコンサルティング・情報発信・オンラインセミナー・オンライン勉強会等を実施。

他、プライベートなお話は➩個人ブログの自己紹介へ。あ、実は田中優勝と書いて『まさかつ』と読みます。世間的には『ゆうしょうさん』と呼ばれることがほとんどです。説明せずに本当の読み方を知っているのは、家族・親せき・幼いころから知っている地元の方くらいだと思います。


【美容業界歴の概要】


序章編:美容業界に関わる前は?
 →地方一般企業の営業マンでした。
25歳:福岡で初めて美容業界へ
 →初の転勤で身も心も鍛えられる?
27歳:福岡撤退(後で復活)
 →大きな挫折を経験します。
28歳:1年本社岡山勤務
 →大きな転機前、束の間の地元。
29歳:単身東京新規開拓
 →未開の地へ再び乗り込む!
30歳:赤羽オフィス1人採用
 →なぜ赤羽?初の採用は?
31歳:田町移転·スタッフ3人~
 →やっとオフィスとして軌道に乗る?
33歳:神田移転·スタッフ6人
 →取引も増え、徐々に人員増へ!
38歳:恵比寿移転·スタッフ9人~
 →製品もサービスも人も充実!
39歳:東京オフィスを後身に託す
 →大きな2つの決断の理由は?
40歳:全国を動く
 →情報発信の大切さに気づく。
44歳:著者『ゆるガチ集客』出版
 →想像もしなかった未来“著者”
46歳:今後も美容業界オンリー!そして…
 →現在、そしてこれからの思いは?

ここから約20,000文字、美容業界オンリーの営業マンとして、自身の経験から学んだことなどを色々と書いております。約20年のお話ですが、昭和生まれの熱苦しいオジサンのお話が、何かの参考になれば幸いです。お時間のある時に読んでみてください。

※様々な地域に移り住む、私の引っ越し歴も同時にお楽しみください。

【美容業界歴の詳細】

序章編:美容業界に関わる前は?:1148文字

1998年。実は、23歳で新卒入社した会社は岡山県を中心に様々な企業のIT化をサポートするシステム会社でした。そこで、自動車整備工場用のシステム・墓石図面作成システム(マニアック)・コピー機等のOA機器も販売していました。

そういえば、せっかく会社の近くでの1人暮らしを始めたのに…

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オフィスが移転して遠くなりました。


当時、社内の飛び込み営業での最短販売記録を樹立!1日50件飛び込み営業という昭和レトロな営業手法で、始めて一週間以内にアポを取って、20日くらいでコピー機を販売したと思います。当時のメーカーでサポートしてくださったベテランの営業さんはキヤノンの山〇さんという方だったのを覚えています。他、当時200万円前後の自動車整備システムを、約1ヵ月で成約するなどの驚きの実績を残す。

その後も新人で営業は初めてながら、それなりに結果も出る日々が続き「営業って、量さえこなせば何とかなるじゃん!」と天狗になり始める。そして、当然のことながら成果は出なくなる。免停・酒の不祥事等もあり、徐々にダメ営業マン化。そこで、会社から喝を入れるべく、自動車整備工場用システムメーカー専任の営業に指名される。当時、全国でも有名だった敏腕(最強、いや最恐)営業マンであったあるメーカー支店長のK氏が、私の専属担当として会社の垣根を越えて指導してくださることになる。そして、ハード(ブラック)な、手厚い(手も出る)、熱血(暴力的)な指導を受け、改心(服従)し始める。

当時、よく覚えているエピソードとして、私が12月は数字が取れるはずない!と言ったところ『だったらお前は、何も変わらない日々を送るのか?商品の話ができないなら、今の取引先の整備工場を全部回れ!ただし、エアダスター・OAクリーナー・雑巾のセットを持って行け!そして“年末でお忙しいと思いますので、掃除に来ました!パソコンの周辺を掃除してもイイですか?”と言って、納品している製品をピカピカにしてこい!』と、言われました。まあ、喜ばれることなので、それで客先訪問してもよいならラクなもんだ!と、思いやりの心など無く、下心満載ながら訪問したところ、年明けから新システムへ入れ替えの相談が何件も来る!という驚きの成果につながりました!(確か丸々1年は、その問い合わせで若手営業マンの目標が、ほぼまかなえていました。)

ハードで手厚く熱血な指導に、持ち前のメンタルの強さ(鈍感さ)で耐えることができたのは、その後の営業マン人生に大きな影響があったのではと、今考えると本当に感謝です!しかし、その後は会社の方針等もあり、自動車整備システムの販売に対する重要度は下がっていく。そんな中、社内で成長していた理美容営業部で若い営業人員を求めていたこともあり、システム営業部から理美容営業部へ異動を決意する。(まあ、決意というより異動命令ですね...)

25歳:福岡で初めて美容業界へ:2292文字

2000年。理美容事業部に異動して、確か2ヶ月くらい経過した頃、熱血指導していただいた他社メーカー営業マンK氏が、ヘッドハンティングで同じ会社の一員になると聞く。当時、私は新婚で、やっと夫婦2人での生活を始め、これからじっくりと岡山で美容サロン向けシステムのことを学ぼうとしていた頃。初めての二人暮らしは、こんなコーポでした。確か、2DKで家賃¥60,000(駐車場込)くらい。すんごい壁が薄かった記憶があります。

パレス浜野

その矢先に、上記のK氏は福岡出身で、福岡での美容市場の新規開拓をするので、部下が1人必要とのこと。そこで私に白羽の矢?が立つ!(まあ、営業スキルやトーク能力とかではなく、噂の熱血指導にメンタル的に耐えられる人間が他にいなかったという人選でしょう。)新婚6カ月で3ヵ月の単身赴任を経験し、新婚9カ月でアパートを解約して、妻も一緒に福岡に転勤。妻の『あんたは地元企業に就職したし、転勤とか無いと思ってたから結婚したのに~!』と、新婚早々に非常にヘビーなクレームをいただきましたが、19歳から知り合いの妻でしたので、何とか福岡での生活を始める。あ、2000年に新婚って、当時は“ミレニアム婚”なんて言われていました。

そして転勤後、当時は“九州支社”としてスタート!

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オフィスは、福岡市西区福重でした。※今はこちらには弊社オフィスはありません。

初めての転勤、初めての美容業界、初めての地元以外での夫婦での生活。何もかもが初めてだらけでしたが、とりあえず動きまくる!熱血上司となったK氏、本当にアイデアは豊富で、キャンペーン等の企画力や、周りの人を巻き込む力はかなり強烈でした!そして、様々な(強引な)アイデアによる営業戦略で、商談案件の依頼もどんどん来る。そして、まだまだ若い私には本当に辛い“接待”という飲みの場もどんどん来る!さらに、お酒の勢いのK氏の鉄槌もどんどん来る!朝起きると、頬がやや腫れているということもよくありました。今でしたら、完全に“パワハラ”って言われますね。まあ、そこは昭和の体育会系のノリが当たり前の時代ですから、スルーしましょう笑。

しかし、上司の依頼商談の合間には、飛び込み営業で自分でも新規開拓を続けるという、組織を統率する上司にとっては、良くも?悪くも?自己中すぎて動き過ぎる部下。この頃は“自分個人を信じてもらえてナンボ!”という気持ちが強すぎて、代理店営業と言う考え方にほぼ興味が無く、未開の地で自分を試したい!と独りよがりな姿勢でした。そして、熱血上司K氏の不満が上層部を通じて時々耳に入る日々が続く。同時に、やや問題もあると感じる強引な戦略への不満を上層部に意見するなど、25,6歳の営業マンがひと回りも年齢が上である上司のやることを疑問視し意見するという、非常に扱いにくい営業マンになっていく。(自分の意思をしっかり持っていたということでご容赦ください。)結果、当時から“支社”という形式ではなく、事業部として独立を考えていたK氏の構想から外れ、カラオケ店で言い合いになることも。そんな中、メーカーの人間の責任として1人での活動を続けたいと、成果はほどほどで主張だけはするという、若者の暴挙ともいえる発言と態度でしぶとく営業を続けていくが、徐々にジリ貧となり営業成績は低迷していく。

ちなみにこの頃、私の勤務は“新卒入社の会社の美容事業部に所属”から、いつの間にか“美容サロン専門ポスレジ会社に所属”に変わりました。ちょっとややこしいですかね?要するに、美容事事業部が別法人として独立したということなんです。新卒から地道に固定給与が上がるようになっていたのですが、ここで一旦クリアされて低めの固定給+歩合給になります。そんな中、上司とゴタゴタしているわけですから、営業成績も悪くてどんどん貧乏営業マンになっていきました(泣)これは、自分の責任とは言え、何とタイミングの悪いことか!と、嘆いていてもしょうがないのですが、さすがに嘆いていることの方が多かったかもですね。アポが無くなったりすると、車で昼寝とかしちゃってましたもんね。本当にダメ営業マンでした。

そんな当時から、弊社社長は『いずれは、ウチの製品で全国展開じゃ~!』と言っておりました。当時ダメダメ営業マンな私には、正直なところそんな先の展望を考える器は全くありませんでした。なので、もちろん表面的には賛同していましたが、実際にはほとんど腑に落ちていなかったと思います。

この頃、家計は火の車でした!まぁ、営業成績はどんどん悪くなるので歩合給も入りません!なのに、引っ越してくる時に『イイところに住むから、頑張って給料が上がるんだ!』と、言われるがままに物件を決めたので、なかなか家賃が高いマンションに(身のほども知らずに)住んでたんですよね。懐かしい…

プレミール拾六町

妻がセブンイレブンでバイトして家計を助けてくれたり、合間で医療事務の資格を取るための学校に行ったりと、夫婦(いや、妻だけかな?)で奮闘していました。そんな状況下で実は私、自分を高めるための投資として、SMIという自己啓発プログラムに申し込んで、ビジネスマンとは何たるか?と学ぼうとするという暴挙に出ます!お値段、何と!約50万円!!!移動中にカセットテープ聞いたり、家に帰ったら目標設定のノート書いたり、スケジュール帳に先々までやること書いたり、色々とやりました!まぁ、これは(ダマされたと感じる人もいるかもしれませんが…)自分にとってはよい学びだったと感じています。ちなみに、40歳くらいになって、またある高額な学びに投資するのですが、そのお話はまた後で。

27歳:福岡撤退(後で復活):1034文字

2002年。日韓ワールドカップの年、ついに福岡撤退命令が届く。当時、自分の飛び込み営業だけで関わってくださったサロン様が18軒。何としてもご契約していただいた製品をしっかり使っていただき、激変していく美容業界でポスレジのデータ分析が少しでも経営に活かしてほしい!そんな想いで、美容業界への想いは強くなる。1人メーカー営業マンとして営業もサポートも続ける日々で、サロンオーナーの皆様との関わりも深くなっていく。ただ、1人でできることには限界がある。しかもまだ27歳で美容業界歴も2年目。お客様が大切!と言ってどれだけサポートしても、数字が0続きでは、会社としてその部門を続ける意味が無い。自分の力の無さを痛感し、泣く泣くメーカーとしての撤退を伝え、私のお客様(この“私の”という認識時点で大きな勘違い…)のサポートは、先に事業部独立していた元上司K氏の会社に替わることを、それぞれのサロン様にお伝えする日々。ほとんどのサロン様に『まだ若いんだし、会社の方針なら仕方ないよ。』と言っていただき、多くのサロンオーナー様にお食事等のお別れの機会を作っていただきました。

福岡で最初のご契約サロン様は、天神の6階建てビルの5階の有名店!導入を決めてくれた奥様には『正直、方針としては納得いかない部分もあるけど、良くしてくれたことは感謝している。』というありがたいお言葉をいただく。それまで、食事等のつきあいを業者とするような人ではないとスタッフさんから聞いていた、威厳も貫禄もあるオーナーのご主人から『じゃ、最後という訳じゃないけど飲みに行こうよ!』と、食事にバーにと誘っていただきました。他のサロンオーナー様にも、カラオケ・海辺のランチ・居酒屋等、当時はまだまだ料理の美味しさもイマイチわかっていない若造に、最後まで本当によくしていただきました。そういう辛かった出来事も含め、すべてが今も今後も美容業界に関わっていきたいという気持ちと、営業マンとして大切なことを学んだ貴重な時間だったと、振り返れば改めて感じます。

あ、家庭としては妻が『やった~!岡山に帰れる♪』と小踊りしていたことも思い出しました。まあ、27歳ですからね~。まだ子供もいなくて2人だけだったし、知らない都市で過ごすのは本当に心細かったんだと思います。2年間の福岡生活の間、二人で車で5時間かけて岡山に帰省するのが本当に楽しみでした。

福岡の弊社事業所について、後で復活したということについては、また他で少し記載します。

28歳:1年本社岡山勤務:1261文字

2003年。岡山に引っ越し。久々の地元に、妻はもうウキウキ状態でした。夫婦での生活なら、2DKとかでも確か駐車場込みで6万5千円くらいの家賃。『やっと生活が落ち着く~』とか言ってたと思います。

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仕事については、もう自分の力の無さにいつまでも嘆いている訳にはいかない!福岡で学んだことを少しでもフィードバックしよう!と、今も昔も、短所でも長所でもある切り替えの早さ(GK経験者としては大事)で、とりあえず動く!しかし、岡山は完全に弊社のホーム!地元では弊社と弊社製品➩“サロンマジック”のことを知らない人はいない!弊社の代表はもちろん、他の経験豊富な営業マンもいて、新規やりまくるぞ!みたいな市場ではない。そんなところでも、何とか自分でできること(良い意味では貪欲!悪い意味ではエゴ丸出し!)をやろう!と、福岡でできなかった代理店への関わりを作ろうと考えて(少しは成長している?)色々と活動する。先輩が疎遠になったところや、あまり関わっても紹介は出ないんじゃないか?と言われるところに、自分なりの(自分勝手な)動きで接触を図る。そんな活動で、いくつかの契約をいただくことができ、時には岡山には少ない多店舗契約も獲得。

しかーし・・・やはり、この“自分が自分が”精神が、まぁめんどくさい営業マン。それができなくなると、徐々にやる気も営業成績もトーンダウン。本当に学んでいないというか、成長しない(頑固な短所)というか、変わらない(ここは長所なのかも?)というか。さらには兵庫県にまで足を伸ばしはじめて、もう動くだけムダみたいな状態が続くことに…。

で、そんな姿を良くも悪くも評価してもらえた(のか?)ことで、弊社代表より『東京の新規開拓、やってみないか?』とお声がかかる!これはチャンス!と即答!

※上記、完全にカッコよく脚色しております。本当は、たまたまある関東の商談案件の担当になり、そのタイミングで弊社代表とカフェでお茶してたんです。そこで、代表に言われた言葉。『なあ、東京ってエエよなあ。やっと全国にウチの製品を広げる足掛かりができるで。』そこで私は「はい!イイですね!」と即答!これが、何と1週間後の全体会議で『東京エリアへの進出が見えてきました。担当は田中でいきます。』と、まさかのカフェでの雑談が驚きの“東京勤務で新規開拓”という辞令につながったんです。当時、まだ20人前後の会社で、その重大発表!一応、少しは空気を読むことを学んでいた当時29歳の田中優勝は、その場で「うん!うん!」と、あたかもすべて納得しているかのような、まさに“秒速で決断!”な姿勢を見せたわけです。不安の方が大きかったですが、新しいことができるので、楽しみに感じているドMな気持ちもあったことが、この姿勢につながったのではと思います。(しかし、この時点で内心は「妻に何て言おうかな~…」なんて、非常に小さいことを考えていました笑。)

という訳で、妻には「東京の出張、増えるから!」と言って、東京営業所の新規開拓担当者としてのスタートを切ることになりました。


29歳:単身東京新規開拓:2740文字

2004年。始まりました!東京営業所!と言っても、1人です(笑)。一旦は、協力会社のオフィスの住所を名刺上のみお借りして、バーチャルオフィス的な体制でスタートすることになりました。その前に、東京での仕事が増えることを帰省時に両親に伝えたところ、母から『東京に、おじいちゃんの弟さんがおるで!』と、まさかの親戚がいる発言!(ちなみに、大学1年の時に『ブラジルに親戚がおるで!』という母の発言で、勢いでブラジルまで1ヶ月サッカーしに行ったというエピソードもありますが、それはまた別の機会に。)連絡してもらったところ、それはぜひ顔を出しに来い!ということに。そこで、29年間会ったことのないおじいちゃんの弟さんに、厚かましくも東京に来るときはしばらく泊めさせてくれ!とお願いし、快諾(?)いただく。約3ヶ月の間、会社のホテル代を浮かすという経費削減を実現!その節はありがとうございました!

ちなみに当時は、まだ世の中どこでもスマホでWi-Fiみたいな時代ではなく、当然ガラケー!しかし、いち早く➩P-inという64k高速通信?のモバイルデータカードを持っていた私(途中でイーモバイルに変更)。急ぎの時はそのカードでメール確認等をしていたが、成果も出ない歩合給がほぼつかない貧乏営業マンには、この接続時間で課金されるというモバイルカード契約の費用が何ともツラい!なので、インターネットを多く使わないといけない時は、カフェで休憩ではなくネットカフェ(当時は漫画喫茶って呼ばれてましたね。)で休憩がてら調べものしたり、メールチェックしたりと、今考えると非常に効率が悪いことやってました。でもやはりお金がもったいないからと、2~3日は社内メールを見ないこともよくあり、今考えると本当にレスポンスの悪い(よくやってたな…)営業マンでした。その記憶のせいなのか?今もメールチェックは少々苦手です。スマホのLINEやメッセンジャーなら、かなりレスは早いんですけどね…

しかし、そんな“やる気”だけが取り柄の営業マンでも、ある全国FC展開が始まるという低価格カットチェーン店の商談を奇跡的に獲得!このチャンスを活かさねば!と、とにかくそのサロンを徹底的にサポート!その合間に、飛び込み営業と協力販売店に顔出しという、相変わらず昭和レトロな営業活動を続けていました。

ちなみに、初めてのおじいちゃん(の弟さん)との同居生活は、2階の仏間に布団をしかせてもらい、ほぼ帰ったら寝るだけの状態でした。でも、たまに時間のある時には昔の話などを教えてもらったりと、自分なりには親戚であるということにユルさを出しまくる。そして、わずか1カ月で『礼儀のなってねえ奴だな!』と、警察官で礼儀に厳しかったおじいちゃんに怒られました。ゴメン!と言いながらも、これは愛のムチと素直に(図太く)受け止め、かわいい?孫のような私と呆れながら過ごしてくれました。ただ、当時は少し体調を悪くされていて、あまり負担をかけるのも悪いと感じ始めて、おじいちゃんの家を出ることを決めました。その際にも、そこの息子さん(母の従弟)に不動産会社を紹介してもらい、中野新橋駅と西新宿5丁目の中間地点の、川島商店街にある“菊池ビル”というコーポに引っ越し。

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ここが、真の東京営業所のスタートとなる。(住所は、まだ名刺のみ千代田区飯田橋のバーチャル状態。)この菊池ビル、1Kの5.4畳で5.6万という格安家賃!1階は大家さんの駐車場になっていて、確か同じフロアには4部屋あった気がしますが、住人の方とはほとんど会ったことありません。部屋の半分をカーテンで仕切り、寝るスペースと仕事するスペースに区切って、目が覚めてカーテンを開けると出社という1人営業所状態。あ、やっとこの時に固定電話とADSLでインターネットが使えるオフィスになりました!そんな環境下でも、強靭な(鈍感な)メンタルで日々の営業を行い、先に書いた全国FC展開予定のFCも3店舗、4店舗と順調に増えていく!ちなみに、この期間に真夏の飛び込み営業(上下ガチガチのスーツ姿)と、サポート訪問で7kg痩せました。ある意味、健全なダイエットになっていたのでしょう。

あ、そういえばFAX営業や電話営業もやりましたが、今考えるとまあ迷惑な営業手法でした。他にも、自分でセミナーを企画して、自己負担で会場を借りて、猛暑の中でチラシ配布!その結果、集客0人!まあ、そうでしょうね。集まるわけないですよね。身のほど知らずな営業マンでしたね~。ちなみに、この東京エリア新規開拓当初に、確か半年で1200軒くらい飛び込み営業しました。その飛び込み営業での成約は、何と2件(泣)です。最初の2カ月くらいで気づけよって感じですね。これは、25歳の頃に福岡で飛び込み営業で2年間で18件(少な…)の成約を獲得したという、私の「続ければ、何とかなるはず!福岡で少しは結果が出たんだから!」という、ショボいプライドが、ムダに長く続けてしまった原因でしょう。東京砂漠はそんなに甘くは無かったです。で、その内の1件は、飛び込み営業していたが、それには関係なくたまたま問い合わせてくださっての商談なので、私の訪問は意味が無かったことになります。

その1件のご成約サロン様が、今も本当にお世話になっている、神楽坂のサロンオーナー様と運命の出会いでした!この“運命の出会い”のH氏とのお話については、また機会があれば詳しく書きます。と、もう1つ、自分で勝手に運命の出会いと思っているのは、同じく中野弥生町にショールームがあった、中古の美容機材を販売する某企業(イニシャルBG)様への訪問。結局、そこで何の話にもなりませんでしたが、当時はタブーと言われていた美容機器の中古をネット販売するというビジネス。個人的に、これは今後はニーズが高まるんじゃないかな~?なんて思っていました。そして、いずれ業務提携させていただけることになるとは、何が起こるかわからないもんですね!

あ、一度だけこの1人東京営業所時代に、週末婚、いや月末婚だった妻と、私の母と姉とまだ2歳くらいの甥っ子が、東京に遊びに来ています。母は小さい頃に仲の良かった従妹のオバちゃんと大はしゃぎで、姉は小さい甥っ子を連れての電車移動にアタフタしていました。もう、どこを観光したかも覚えていませんが、お世話になったおじいちゃんや親戚の皆さんと、京王ホテルの中華料理を食べたのは覚えています。そして、母と姉と甥っ子は東中野のホテルへ。妻は私と一緒に、当時の東京営業所“菊池ビル”に宿泊。帰る前に『2度と来たくないな。この部屋…』とボヤいていたような気がします。

30歳:赤羽オフィス1人採用:2399文字

2005年。菊池ビルでの生活も1年。少しずつですがお取引サロンも増えていきます。飛び込み営業と協力販売店への顔出し以外に、業界展示会や交流会への参加等で、徐々に人と協力することや人脈の大切さに気づいていく。(当時、歩合給で余分に入ったお金は、これらの参加費用にあてるという状態で、家の生活は妻のパートがあったから成り立っていました。この時、週末婚状態は1年経過…)ここからは、とにかく1軒1軒の訪問よりも、業界に関わる人に会う機会を作る!ということが中心となっていきます。この頃、“メールアプローチ”という営業手法を生み出しました!美容関係業者さんのホームページのお問い合わせ欄からどんどんメールして、返信があった方に接触するというやり方です。まだSNSも一般的ではなかった当時としては、非常に効率よく人に会うことができるようになりました。

さらに、先に書いた運命の出会いの神楽坂のサロンオーナー様H氏から、後輩の方が独立されるというご紹介を数名いただいたりと、徐々に商談の機会も増える。そして、お取引いただいているFC展開を目指すサロンの方の関連会社の方にお誘いいただき、たまたま参加したビジネス展示会で、色々なブースに挨拶をしていたところ、全国でも名の知れ渡っている有名美容室をご紹介いただく。あ、その美容室の名前を聞いても、当時はまったくわかっていませんでした。なので、余計なプレッシャーもなくプレゼンできた?のが良かったのか、まさかの新店舗へのテスト導入を獲得!(その後、積極的なアフターサポートと営業アプローチで、最大6店舗まで導入を拡大。)

このタイミングでオフィス移転を考えました。これまでの経験で、1人でやれることには限界があるということを学び、時には他の営業所からサポートにスタッフ派遣してもらったりしていました。営業・販売としての協力会社を増やすだけではなく、自分自身を身近でサポートしてくれるスタッフが欲しい!そのためにも、今の1人オフィスではダメだ!そう考えている矢先、たまたま妻の親戚の集まりに顔を出した時に、岡山にいる妻の従弟が東京での勤務経験もあり、今は仕事についていないという話を聞きました。さらにIT関連にも興味がある!これはどうだ?と面接して、すぐに採用へ!初の直属の後輩(部下と言う言葉があまり好くではないので、あえて後輩と表現します。)としてS君が一緒に働くことになりました!

新しい赤羽オフィスは、2LDKのマンション!

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そこに、荷物が送られてくる時にわかりやすいようにと、お手製の会社名の看板を作ってスタート!あ、今度は仕事場とオフィススペースの仕切りはカーテンではなく、ふすまにグレードアップしました!(笑)私はそのまま週末婚で平日はここに住み、採用したS君は隣の部屋に住む。なんと!S氏は家賃ナシで東京23区に住めるという破格?の高待遇でした!(いやいや、先輩と同居の時点で高待遇もクソも無いでしょう…)しかし、なぜ移転先は赤羽?という点については、少し時期をさかのぼります。様々なセミナーに参加していて出会った、とある会計事務所の先生とのご縁によるものです。当時、まだ誰も知り合いがいない東京で、セミナー後に講師としてお話されていた、赤羽の会計事務所の税理士N先生にご挨拶。いつも、その方の美容業界誌に書かれているコラムをよく読んでいたので、そのことを伝えました!すると『岡山から単身ですか?大変ですね!よかったら、また遊びに来てくださいね。』と、優しいお言葉をいただき、その翌週くらいにはすぐ本当に遊びに?行っていました。美容サロンのポスレジ屋・IT屋なのに、パソコンも持たずに「せっかくなんで、本当に遊びに来ました!」と、これまでのちょっとした若造の苦労話をお話ししたりして、時々飲みに連れて行ってくださることも。後に『営業に来るのかと思ったら、本当にパソコンも持たずに遊びに来るって、おもしろいな!って思ったね。』とのことでした。そんなご縁もあり、近くにいるとまたご縁も深まるかも?なんて思いで、赤羽オフィスになりました。今も、たまに夜のお酒につき合ってくださるN先生、本当にありがとうございます!

ちなみに、この時もまだ名刺上の住所は千代田区飯田橋のバーチャル住所で、実はひっそりと赤羽住所の名刺も作っていました。結局、日の目を見ることなく終わった赤羽住所の名刺ですが、正式に作っていたらプレミアで高値がついていたかもしれませんね。(無い無い…)この赤羽オフィスでの約1年の活動では、東京で初の多店舗同時案件(5店舗)や、弊社初のリアルタイムクラウドによる20店舗以上の導入など、今後の可能性を広げる大きな納品を経験しました。そして、同居していたS氏も自分でアパートを借りて1人暮らしするようになりました。同時に、週末婚(いや、月末婚?)状態だった妻から『あんた、もはやこの1年半は出張じゃないでしょ!』というツッコミもあり、妻も東京へ引っ越してくることになります。で、そのまま赤羽オフィスは新しい田中家となり、赤羽は私の第二の故郷と言っても過言ではない、大好きな思い出の町になっていきます。

そして実はこの頃、最初に東京で獲得した、全国展開を目指すという低価格カットのチェーン店は『これ以上広げない!』という決断となります。全国でどんどん出店する!と言っていたのに、4店舗でストップですよ!今後の営業展開にも大きく影響しますが、ある意味ではこのFC展開が無くなったからこそ、自分が何とかしなければ!という気持ちで成長できたのかもしれません。最初に聞いたときは「マジか~。また大変になるな…」と思ったのですが、翌日には「まあ、無いものはしょうがない。」と、ここでも切り替えの早さ(いいかげんさ)を発揮して、次の展開を考え始めるテキトーな営業マンでした。


31歳:田町移転·スタッフ3人~:1906文字

2006年。おそらく、関東での導入サロン件数が100軒を超えた頃です。上記の、妻が東京に来るタイミングの少し前に、田町オフィスへの移転が決まります。

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※上の写真はリニューアルされていますね。当時は、もっと入り口も古くて雑居ビルって感じでした。

岡山の某うどんチェーン店の東京オフィスがあり、そこの半分を使っていないので、岡山本社のご縁で格安で使わせてもらうことになりました。この頃、実はわずか数カ月の勤務ながら、今後の東京オフィスの成長に欠かせない、今もお付き合いのあるO氏の存在があるのですが、現在のお勤め先の事情もあり、ここでは省略させていただきます。(ご希望の場合は、リアルでお会いできた方には詳しくお話します。)

その後、広島で採用されていたスタッフが東京に興味アリ!とのことで、岡山本社にて面接。もうすぐ26歳になる若者K君は、あまり美容に興味が無さそうなボサボサの髪型で、スーツのサイズもイマイチ合っていない。しかし、パソコンには詳しく、東京で暮らすことには抵抗どころか期待しかない!と、メガネの奥に熱いハートが見え、磨けば光りそうなイケメン君を逃す手は無い!その日のうちに「基本的には、一緒に働きたいと思ってる。」と意向を伝える。その後、東京での業務もどんどん忙しくなり、異動の手続きなどを怠っていると、K君から『いったい、いつから東京で仕事できるんでしょうか?』と、ツッコミが入る!「ゴメン!」と詫びて、すぐに手続きを始める。(ちなみにK氏は、今や東京オフィスサポート課の係長!後輩の出世が何より嬉しいですね!!!)

そして、私とS君・K君の3人(一瞬はO氏もいて4人に)の東京営業所が始まり、営業の私とサポートの2人という体制になる。30代でやっと営業として充実した時が始まったのがこの頃ではないかと、振り返ってみて感じます。順調に営業成績も上がり、私にとってはほぼ初めての満額ボーナス(と言っても、毎月の歩合比率が高いので、ボーナスは30万くらい)が支給されました。そうです!今まで、毎月のいくらかの基本給+歩合給はあったのですが、1人営業マンではなかなか目標達成までは届かない!シビアな環境でシビアな目標は、未来の自分を育ててくれる大事な経験だ!と捉えて過ごしてきて、やっとの思いでもらった満額ボーナス!誰に感謝するって、それは・・・一緒に働いてくれているサポートマン2人!一緒にスーツ屋に行って(と言っても、洋服の〇山ですが…)2人にぴったりのスーツを購入!美容室に訪問するからには、やはり身なりはきちんとしてほしい!そこから、2人の現場訪問時の意識は変わったのでは?と勝手に思っています。

しかし!順調に思っていたこの少し後で…事件が!『S君のメンタル崩壊!』です。私の営業成績が好調ということは、サポートマンの2人はどんどん忙しくなる。さらに、製品知識の習得もどんどん複雑になり、お客様に求められる要求も高くなる。その中で、無断欠勤や遅刻等が相次ぐ状態になり、色々と支えてみましたが、結局は弊社を去ることになりました。最初に採用したスタッフが辞めること、これは本当にツラいことでした。(ただ、妻の従弟ですので、親戚の集まり次第では後に会う機会もあり、現在も関係が悪くなったわけではありません。)

色々と問題はありつつも、ある大きなサロンコンサルティンググループとの提携や、美容室の開業支援や保険の提案をされている企業様との協業等で、商談機会はどんどん増えていきます。そこで、サポートが不足すると営業マンの力が発揮されないということもあり、岡山本社から次のサポートマンが送られてくるか?と思いきや、なぜか営業マン兼サポートマンが増える!そして営業所としての目標数字が上がる!さらに、美容商材販売事業部がいつの間にかできて、イケメンで長身の若手営業マンが、岡山から派遣されたりと、目まぐるしく環境が変わり、気がつけばS君が抜けた後の田町オフィスは5人となり、1人辞めたことを嘆いているヒマもないほどの日々を過ごしていました。今考えると、若い時にこのように様々な環境変化が次々と訪れることは、本当に貴重な経験でした。

ちなみに、現在も東京オフィスの貴重な人脈づくりの場として続いている『美容業界交流会』は、この田町オフィスで第1回が開催されました。美容室に関わる業者さんを集めて情報交換すれば、お互いのお取引先の方々が困っている点がわかるので、有益な紹介につながるのでは?との思いから始めましたが、この交流会は次の神田オフィスで進化して、弊社の関東エリア開拓に欠かせない、重要な企画へと育っていきます。



33歳:神田移転·スタッフ6人~:2922文字

2008年。神田に移転。東京オフィスのお取引サロン様がおそらく300軒を超えた頃でしょう。色々と調べて、神田から徒歩5分くらいの場所に、新築のマンションが住居兼オフィスとして出ていて、移動などを考えると神田は非常に便利!と感じて、このオフィスを選びました!

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新築できれいでしたが、元々は住居専用で募集していて、オフィス街ということもありあまり部屋が埋まらなかった様子で、中小企業への賃貸募集が始まったところでした。こちらは非常に使い勝手も良く、住居用だったのでキッチンやお風呂等の生活も充実!深夜まで業務が続く時は、泊まって仕事したり、夕食作ったりして、今ならブラック企業と言われそうですが、当時はそれなりに楽しかったと思います。他、皇居まで1.5kmくらいでしたので夜ランしたり、神田駅のガード下や、すぐ近くの朝5時まで空いている居酒屋等で、みんなでよく飲んでいました。

美容業界では、ホットペッパービューティがどんどん広がってきた頃で、CTI・クラウド・Web予約等の専門的な技術が増えていく。そんな流れの中で、弊社製品はこれまでのタイプから、今も販売されているロングセラー製品➩SalonMagicPlus+へとバージョンアップの時!他社製品との連携等も始まったり、今までの既存製品の追加もあったりと、本当にサポートスタッフには大変な時期だったと思います。

そんな中、岡山からN君。大阪からS君A君と、立て続けに営業マンが送り込まれる!上層部からの『東京は(あのダメだった田中でもできてるから)数字が出るぞ!』という目論見から、営業マンが増えて目標が強引に上がる!そして、本社の忘年会で目立っていたA君を東京にスカウト!そして、岡山でIターン就職しようとしていたM君も、タイミングよく東京に誘導!さらに、転職組のKさんと、広島から美容商材事業部の担当としてHさんと、女性スタッフも2人増える!そして、初の新卒採用Y君も入社!6人からスタートしましたが、出たり入ったりもあり、途中で最大スタッフ9名まで増えました。手狭になったタイミングで、たまたま隣のフロアが空いたので、追加で借りてオフィス拡張!隣のフロアなので、ベランダから行き来できるという便利な拡張で、また色々と使い勝手がよくなりました!

この頃、先に書いていた『美容業界交流会』が、本当に重要なイベントになっていきます。キッチンが充実していたので、料理好きな私が手料理でおもてなしして、安くて何時までも食って飲んで、最悪終電が無くなっても大丈夫?みたいな雰囲気の交流会になっていきました。和風・イタリアン・居酒屋メニュー等、わりと何でも作れます。多い時は、美容業界の業者さんが20企業・30人くらい参加されるときもあって、まだまだ昭和生まれ感満載の方々が、夜な夜な熱く語ることで人脈が増えて、深まって、お互いのビジネスの紹介につながる。そんな好循環が生まれる企画として、多くの知り合いに認知されるようになりました!当時は、不定期で気まぐれに開催していたのですが、2~3ヵ月経過すると『交流会、そろそろやらないの?』なんてお声もいただいていました。まだまだSNSをフル活用しているような人も少ない時代、きっと情報が集まる場所として重宝されていたのでしょう。SNSでは、早くやってる人とかが、Mixiで情報収集や人集めをしていた頃ですが、まだまだごく一部の人がビジネスに活かしていただけ。そういう時代に、このリアルな交流会は合っていたのかもしれませんね。(ちなみに、この企画は完全に“パクり”です笑。当時、色々とお世話になっていた美容室の新卒採用を支援する会社のK社長が、週イチ飲み会を自社オフィスで開催されていて、そこで多くの人脈を作られていたので、それをマネさせていただきました。ありがとうございます!)

ここで、隣のフロア拡張に伴い、重要な2つのエピソードをご紹介!実は、大阪からやってきたA君は、2年間この拡張フロアのキッチンスペースに住んでいました!大阪に奥さんと子供二人を置いてきており、余計なコストはかけたくないということで、生活スペースのあるオフィスをフル活用!まるで、最初の1人東京オフィス“菊池ビル”のように、目が覚めたら出社と言う状態。それでもたまに寝過ごすA君を叩き起こしていたのは、今では良い思い出?です。(この後、2年間の単身赴任生活を経て、大阪オフィス移動となり家族のもとに戻っていきました。)他、岡山でスカウトしたA君は、初めての東京研修5日間で、まさかの東日本大震災を経験しました!神田オフィスはまあまあ高めのビルでしたので、かなり激しく揺れて大変なことになった!と驚きました。ただその頃は、まだテレビの情報がメインで、東北が大変なことになっていることを知らず、電車も止まってしまってみんな帰れなくなったので、しょうがなく近くの居酒屋で食事して、オフィスに宿泊しました。翌日、東北がとんでもない大変な状況になったと知って、本当に驚いたことを覚えています。

ここで、27歳の時に撤退した福岡オフィスについて。実は、事業独立した元上司K氏にも色々とあり、結局は弊社の福岡営業所として再スタートしております。この頃は、福岡市南区のコーポで福岡常駐スタッフ2名と、営業部長が定期的に福岡に入るという体制で運営していました。

サンフィール三宅

時々、この福岡営業所にも泊ってました。懐かしい。

その頃、弊社の事業エリア拡大のタイミングと、東京でご契約となった全国展開されているエステサロン様の納品・設置等もあり、私も約9年ぶりに福岡の地を訪れることになりました!その後、年に数回は九州エリアでも活動するようになり、撤退時にお別れしたサロンの皆様に会いに行った時は、本当に“感無量”でした!独立されている方、店舗拡大されている方、移転されている方、変わらず続けられている方など、9年を経ても変わらず接していただけたこと、さらには弊社の新製品を再契約してくださった方もいたこと、本当に感謝しております。そんなこんなで、東京に住んでいながらも、九州エリアにたまに出没するような行動になりました。これが、今の“全国どこでもドア”的な営業マン活動の始まりだったかもしれません。

個人的には、この神田オフィス時代に長男が誕生。そして、次の移転前に次男が誕生しています。もうすぐ12歳と8歳。あっという間ですね。そんな仕事も家庭も充実している時に、東京で所属していたサッカーリーグで初優勝したりGKでベストイレブンもらったり、富士五湖マラソンに3年連則参加して、72km・100km・108kmを完走したりしていました。今考えると、ちょっと頭がおかしいレベルで色々やっていた時代ですね。若い頃は、何でも経験した方がイイ!というお手本ですね。(いや、1つのことに集中できないと言う、悪い見本かも?)

あ、この頃に普通の営業マンから“取締役”になりました。今も、取締役次長という、あまり聞かない役職として活動しております。

そして、赤羽北口から赤羽南口に引っ越していますね。

赤羽南

いや~!「好きです。赤羽!」長男が幼稚園に入園する頃に、次男が妻のお腹の中にいて、我が家もどんどん賑やかになりそうな時でした。田中家の歴史を語る時には欠かせない思い出の地になりましたね!


38歳:恵比寿移転·スタッフ9人~:1252文字

2013年。やってきました!ついに次のオフィスは恵比寿です!

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おそらく、この頃のお取引サロン様は500~600軒くらいだと思います。

ここは、弊社代表が探してくださいました!実は、最初は表参道とか渋谷になる予定だったんです。しかし、神田と言う移動が非常に便利な駅からすると、東京生活の長い私には渋谷と表参道があまり便利な場所に思えない。さらに、今のメンバーが少々通勤もしにくくなる。そこで、これまた図々しくも、駅が大き過ぎず、路線もいくつか使える恵比寿にしてほしい!と意見を出し、こんなステキなオフィスになりました。社長、ありがとうございました!おかげさまで、今も快適に使わせていただいております!

当時、弊社製品の新バージョン開発にあたり、データベース選定・デザイン・分析表のアイデア等、開発とかなり親密?に意見交換(まあ、言い合いレベル)しながら製品の構成を担当していました。そして、現在も多くご利用いただいているサロンポスレジ製品➩SalonMagicPlus+をリリース!神田にいた頃にプレリリースのような状態で導入は進んでいたのですが、恵比寿移転後に多く世に送り出し始めました。でも、これが本当に大変でした。“営業現場の理想”と“開発現場の現実”が、なかなか噛み合わないんです!製品づくりと言う点では、気持ちも込めていたし楽しかったと同時に、こんなに社内の意見をまとめることが大変なのかと、途中でイヤになりそうなレベルで苦労したのを覚えています。

しかし、持ち前の我慢強さ(自分で言うな!)で耐え、優秀な開発の頭脳に助けてもらいながら、製品としての完成度を高めていくことができました。Web予約・アプリ・他社システム連携・クラウド化・大型カスタマイズ等、当時としては弊社製品の完成度は非常に高くなり、他社競合においても、美容サロンポスレジシステムとしてのサービス内容で他社より劣ることは非常に少なくなりました。そして、人財もどんどん充実してきます!神田オフィス時代に大阪から異動してきていたS氏が営業マンとして頭角を現してきており、岡山からスカウトしたA君もメキメキと成長!2006年の田町オフィス時代から一緒にサポートしてくれているK君も、高い技術力と知識力でサポートメンバーをまとめる立場として成長!そのもとで、岡山Iターン狙いのはずが東京勤務になったM君も、元俳優を目指していたという話題の豊富さと、漫画ネタ・エロネタも自在に操る優秀?な能力で場を和ませる!そして、新卒入社したY君は持ち前の人柄の良さで、お客様の信頼をどんどん獲得!神田オフィス時代に転職組として入社したKさん(女性)は、男だらけの職場でも、さっぱりした性格で、高いコミュニケーション能力と対応力で、社内も社外も盛り上げてくれました。この頃は、本当に周りのメンバーに恵まれてきていた時でした!

こうなってくると、自分の営業マンとしての成果よりも、周りのメンバーの成長が嬉しくなり、どんどん数字への貪欲さが良い意味?で薄れてきます。


39歳:東京オフィスを後身に託す:2386文字

2014年。関東エリアのお取引サロン様は1000軒が見えてきたころでしたかね。ここで、私なりの大きな決断をします!いつまでも自分がこの東京オフィスの責任者であることが、他の若いメンバーの成長にはデメリットになっている部分もあるのでは?そして、気がつけば東京に住んで10年。弊社代表に伝えたのは以下の2つ。

『東京オフィスの所長はS君に任せたい。』

『東京開拓から10年、岡山に戻ります。』

私、自分がトップの数字であることが、営業マンのプライドだ!ってタイプではありません。さらに、自分があまり営業マンとして、スキルが高いとは思っていませんし、むしろトーク力やプレゼン力とか低めです。それって『営業マンとしてどうなの?』と思われるかもしれません。でも、ある程度同じエリアで長くやっていると、何となく成功パターンが見えてきます。そんな時に、それを人に与えるのではなく、さらには手法さえも見せずに『自分はできるんだぞ!自分で考えろ!!見て覚えろ!!!』というような指導法を選択する人もいるかもしれません。でも、そういうのって、みんなで成長していくという考えの時には、非常に邪魔な考え方だと私は思っています。間違ってはいないかもしれませんが、それは自分の身を守ることが最優先になっているのでは?と感じます。(あくまで持論です。人によっては、それで若い人が成長するケースもありますから。)まあ、30代中頃くらいまでは、数字・結果を全力で追うことはメチャメチャ大事ですし、それでメチャメチャ成長できました!自分の限界を知るって、それはそれで必要なことですから。あ、社内では一応、年間営業マントップ数字とか、月間最多数字とか、一応それなりの成果は出したことはあります。でも、それを自分がひたすら続けることだけを考えて、結局は自分の近くにいる営業マンは誰も育っていない。それは、私が(もちろん、組織としても)求めていることでは無いはず。だから、それなりの数字を作るということは、みんなに頑張ってもらうために、自分もやっているという姿勢を見せるべき!そんな感じで考えていました。

で、周りもどんどん成長していく!時には私より優秀な成績になる!それに対して、良くも悪くも「なにクソ!」みたいな感情は沸かない。むしろ「いいぞいいぞ!」って感じです。でも、これは一歩間違うと、上司からも部下からも『何やってんのアイツ?営業マンなら数字で示せよ!』って思われるかもしれません。(いや、一歩間違えないでもそうなるかも?)でも、それで一緒にやっている仲間の成長の芽を摘むことの方が、自分にとっては悪に感じてしまう。結果、東京オフィスは所長のS君を中心に、優秀なスタッフ揃いでしっかりと市場シェアを拡大していき、販売もサポートも非常に充実していきました。結果オーライ!ということでしょう!(軽くてすいません。)

こういう考えの中で、今までも力を入れていた❝交流会❞とか❝SNS❞とかの、人をつなぐことや広げることにさらに興味が出てきたのだと思います。こういう人脈や交流などは、やはり長く同じ業界にいることでより強い武器になっていくものですので、若さと勢いも大事ですが、経験が重要なこと。自分の経験が役に立ち、自分だからこそできて、美容業界に貢献しながら会社への貢献にもなる。そんなことができるようになるのが、これからの自分の使命ではないか?と考え始めたのがこの頃でした。それが、その後の「ブログを書く!Web・SNS上で情報発信する!」というWeb上でのブランディング・マーケティングに力を入れる、という考えにつながったのだと、自分では思っています。SNSと言えば、2011年から始めたFacebookは、その後の私の営業マンとしての実績を大きく支えるツールの1つとなっていきました。➩田中優勝のFacebook

そして、この項の最初に書いた“岡山に戻る”について、いよいよ色々と準備を始めます。過去の福岡からの引っ越しでは、妻は『やったー!岡山に帰れる!』と、小踊り状態でしたが、今回は約10年住んだ赤羽。やはり思い出も多く、別れを惜しむ気持ちも多かった様子でした。結婚当初は、各地を転々とする生活は全く想像していなかった妻ですが、色々な環境変化について来てくれたことは本当に感謝ですね。夫婦でお互いに成長できた時だったのではないでしょうか。(と、勝手に私の都合よい解釈で、いい話っぽく書いておきます笑)

で、妻の夢の1つだった・・・

一宮自宅

“小さいながらも楽しい我が家”の、マイホームを購入!昭和のオジサン、頑張りました!土地だけは、一緒に考えて2人の意見が一致した場所に決まりましたが、家自体に関しては妻にほとんどお任せ。20代から、どこに住んでもストレスなく生きていける私にとっては、メシ・フロ・寝るがあれば快適!今も、週末くらいしか家に帰らない日々ですが、その週末さえも家にいることが少ない。もう、本当に放浪癖がついてしまっています。あと、この家を岡山にしたという大きな理由ですが、実は私の父は私が31歳の時に亡くなっています。そして、今は70歳になる母が1人で実家に暮らしています。岡山市内からは非常に遠い場所なので、せめて同じ家に住むとは言わないまでも、年に何回か孫を連れて実家に帰りやすくなるようにと、東京暮らし10年を経て引っ越しすることを決めました。正直、私が次男だったらこの考えは無かったでしょうね。東京生活は楽しかったし、思い出も多くて名残惜しかった。でも、約200年は続いている(らしい)田中家の長男に生まれたという運命は、これは自分が背負うべきものなのだろうと、そんな古臭いと思われそうな考えもありました。おかげで、以前より実家によることも増え、これはこれで良い決断だったのではと思っています。


40歳:全国を動く:1879文字

2015年7月。個人ブログを開始した年ですね。コチラが➩最初の記事です。(内容が薄い…)今現在、やっと600記事に到達しました。週1から始まり、多い時には週2~3回。毎日ブログと言うのはなかなか継続が難しいのかな?と、自分に甘い気持ちで続けたことで、気がつけば約5年続いています。40歳から始めたにしては、よく続いている方だと、自分で自分を褒めておきます。当初は1記事多くて20pv程度でした。そんな時に、たまたま書いた➩ホトペのネット予約手数料について書いた記事が、何だかどんどんシェアされて1000pvくらいになってビビったのを覚えています。こりゃ、ちょっと有名になっちゃうんじゃないの?とか、ホトペからツッコミが来たらどうしよ!とか・・・。でも『所詮1000pvなんて大したことないし、そんなpv数をR社さんは相手にしないですよ~。』ということをブログに詳しい人に聞いて、なんて自意識過剰なんだ~(泣)と、恥ずかしくなったのを思い出しました。

あ、その後は1記事3000pvとか、ちょいちょい出るようになりました。この頃は、ブログが情報発信ツールとして勢いがあった頃でしたが、やはり継続は大事ですね~!そして、私なりには伝説の1記事30,000pvオーバーの記事が生まれます!それがコチラ➩お客様からのお手紙“もうそちらには行けません。なぜなら・・・”です。常連のお客様との距離感を考えさせられる、非常に深いお話を、老舗のサロンオーナー様にご教授いただき書かせていただきました。今は、こんな30,000pvオーバーの記事とか、イチ個人の営業マンでなかなか出ないかもしれませんが、地道な継続のおかげで、仮にブログを更新することなく放置していたとしても、1ヵ月に500人くらいの新規の方が私のブログ(➩youshowtanaka.com)を訪れてくれています。これは、5年間コンテンツを蓄積したからこその成果だと感じております。引き続き、美容サロン訪問現場で得た有益な情報を、皆さまにお届けできるように、アンテナを張りつつブログも書き続けていくつもりです。

あ、このブログの成果に大きく影響しているのが、2016年2月に学んだ➩エクスペリエンスマーケティング。通称“エクスマ”ですね。こちらのお値段、4回コースで約40万円!その価値は充分すぎるほどありましたね!この時に学んだことをFacebookの投稿でしっかりと実践し、ほぼ丸4年は毎日Facebook投稿を継続しました。そして、ざっと集計してみたところ、Facebookきっかけでの営業マンとしての数字が、その翌年に何と!年間1800万円に!その後も、ざっと年間1000万オーバーにくらいの営業数字は作られており、これは非常に大きな数字の上乗せになりました。ある意味、時代に合った新しい営業マンとしての在り方を、自分なりに身につけることができたのではと思います。学びの一部として重要だったのは、SNSで影響力を高めていくためには、ただ仕事のことだけではなく、プライベートや時事ネタなど、もっと幅広く自分を知ってもらうことが大事ということ。それは、今までまったく意識していなかったことでした。移動とサロン訪問が多く、家でもあまりじっとしていない私には、日常のネタは色々と思いつくので、自分に合っていたというのもあるかもしれませんね。現在はTwitterにも徐々に力を入れてみるようにしており、まだまだ幅を広げていければと考えています。

ちなみにこの頃、本来はできれば岡山周辺で仕事ができればと思っていましたが、これまたなかなか難しかったんですよね。会社として企画室みたいな部署はまだ望まれていない時。私のような営業マンで数字を作ることに責任のある者が、いきなり『社内で企画だけやりまーす!』みたいな宣言ができる環境ではありませんでした。(それにトライした場合の未来も見てみたい気もしますが、それを選択しなかったからこその“今”がある。なので、今の自分には何の後悔もありません。)で、結局は岡山と東京を行き来しながら、たまに大阪や名古屋に途中下車して営業活動やセミナーを行うという、新幹線のデスクと電源がマイデスクみたいな状態になっていきます。そして、この動きがある意味では、SNSやブログの世界でもウケがよかったのかもしれません。こんな自由な動き方を許してくれた会社と家族には、本当に感謝しかありません!(移動コストの点と、家族の時間と言う点では、非常に迷惑をかけているので、ここは結果でお返しするしかないと、今も常に念頭に置いております!)


44歳:著者『ゆるガチ集客』出版:1829文字

2019年。大きなイベントとしては、やはり『出版』ですね。この出版については、共同著者の阿部弘康氏の存在が大きかったです。本当にありがとう!阿部氏は、某美容商社に在籍時に、自身のブランディングのために出版して、その後はサロン専門コンサルタントとして独立。コンサルティングに、サロンのデータ分析ツールは欠かせない!ということで、非常に良い?コンビとしてビジネスシーンでも、お酒の場でも、何度も一緒に過ごしてきました。当時、私はこの出版の3年前から、ブログを連載型で書き、それを自作の小冊子にして「本です!」と、厚かましく訪問サロンに配布していました。ちなみに、この無料小冊子シリーズは、私のブログの➩コチラの記事から、無料ダウンロード可能ですが、2018年度版“美容室の7つのチカラUP術”は、700ダウンロードされました。今も、ちょいちょいダウンロードされています。こうやって、美容業界にお伝えしたい想いが、どんどんコンテンツとして蓄積されていったわけです。今も昔も、私の伝えたいことは「美容室における“リピーターの重要性”という当たり前。」です。これは、きっとこれからもずっと変わらないことのはず。でも、その当たり前を構築する要素や環境は常に変わるので、そこはしっかり学び続けないと、そのうち“老害”になってしまうのでは?と自戒を込めて書いておきます。

あ、ちなみにこういうことをやっている間も、ずっと通常は営業マンとして活動していますよ。(著者活動は、あくまで会社と自分のブランド力向上のためです。)この頃、弊社の美容サロン専門ポスレジシステムが、ついに待ち望んだカタチに生まれ変わってリリースされます。それが、現在好評販売中の➩SalonAnswerです!

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美容業界にした特化ポスレジとして、様々な“はじめて”を実現!クラウドサービス!使う端末を選ばない!集客サイト一元管理!テーブル会計や電子カルテも、手元でいつでもどこでも、インターネットがあれば使えちゃう!そして、導入コストもリーズナブルなのに、リピート分析やVIP客分析等の機能も充実!美容室・ネイルサロン・アイラッシュサロン・エステサロンなどなど、美容業界に関わる皆様、ご興味ありましたらいつでもお問い合わせくださーい!

話を元に戻します。出版について。これまでの蓄積したコンテンツを企画書にして、髪書房出版様に出版への案を提出。それが、まさかの“採用”となります!これにはビビりましたね~!美容業界で長く営業マンとして仕事をしてきて、自分が著者になるという未来は20代・30代の頃にはまったく想像していませんでした。まあ、自作小冊子を作り始めた時から、もしかしたら?という気持ちは出てきたので、やはり思い描いて実行するということが大事ですね!これは、2016年に学んだエクスマの教えも非常に生きています。この私の、とにかく「やればできる!」精神は、若いころ?いや子どものころから、良くも悪くも変わっていないことかもしれません。

そして完成!出版!!発売!!!

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初の著書➩“ゆるガチ集客”です!

美容室専門ポスレジ屋として20年。全国の様々な美容室を、おそらく5000軒は訪問してきました。そんな経験の一部が、美容業界の皆様のお役に立てるようにと、私なりに“集客とリピート”を詰め込みまくった本になっています。私個人のイチバンのオススメは、P110~113の『経験の違いを埋める!共有ごと発掘会議』です!

共有ごと発掘会議

美容室って、この『共有ごと』が、あまりサロン成長・スタッフ成長に活かされていないんです。カンタンに言うと、リピート率がサロン内でイチバン良い!って人は『何をしているの?』ということを具体的にする。そして、それをサロンの決まり事として、他のスタイリストも『共有=マネする』ということ。キャリア・客層・経験の差だけではない何らかの工夫が、自サロン内で意外にカンタンに見つかるんです!これができるだけで、実は売上アップに大きく影響してきます。そんな『イイところ探し』ができる『共有ごと発掘会議』のサポート、全国各地で実施しております。最近は、Webミーティングでもしっかりと成果が出ています。どこからでも対応できるのは、本当にイイ時代になったなぁ~。と思います。

皆様、著書の購入・Webコンサルティングのご依頼・弊社製品へのお問い合わせ・講習やセミナー依頼・お酒のお誘いなど、色々とお待ちしております~!!!


46歳:今後も美容業界オンリーで!:830文字

いよいよ最後になります。「これからも美容業界に、ガッツリと客観的にも主観的にも関わっていこう!」と、現在は思っております。25歳から20年以上ですからね。思い入れも強いです。そして何より、美容師の皆様、サロンオーナーの皆様、美容業界の皆様とのお仕事は、本当に楽しい!23歳の新卒入社の2年後に、美容業界に特化した事業部に異動し、福岡時代のエピソードにも書いていますが、気がつけば会社ごと美容業界オンリーになっていました。

なので、もう人生の半分近くを、美容業界に支えていただいているのですから、これから別の業界を中心に活動するというのは、ちょっと自分には考えられないです。あ、でも美容業界にフィードバックできるようなビジネスなら、どんどん関わりたいですね!医療・美容整形・美容外科・歯科・整体・リラク・マッサージとか、どれも店舗があって、お客様が来て、何度も通ってくださることがベースになるビジネス。そして“美”と“健康”はやはり密接な関係にあります。あ、そういう意味では“食”との関係も深いですね。友人が農家やってるし、実家の土地には田畑もあるし、山あるし、イノシシが捕れるし、将来的には日本の豊かな自然があるからこその“農業”も、ビジネスとして美容業界に関係してくるのかもしれません。他、健康と言えばスポーツも関係ありますね!アラフィフになっても続けているサッカーでは、最近は子供たちにゴールキーパーを教えることも楽しくなってきました。日本の未来を支える子供たちの成長をサポートする。そういう活動も、数年後に美容業界のお役に立てる時が来るのかも?

と、そんな感じで、何歳になってもアクティブに活動していきたい!と、いつも思っています。そして、これからも美容業界の『リピーターの重要性』という『当たり前』を、熱苦しくお伝えし続けていきます。

25歳から46歳まで20年以上の、いち営業マンの熱苦しいストーリーを読んでくださって、ありがとうございました!

これからも、色々と、情報収集して、情報発信、リアルでも、オンラインでも、積極的な活動を続けていきます。

今後も、皆様のサロン、そしてスタッフの皆様が、リピートビジネスとして、地域ビジネスとして、教育ビジネスとして、今以上に繁栄・成長されることを願っております。

田中優勝(実は、まさかつと読みます。同姓同名募集中です。)



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