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「すみません」より、「ありがとう」を

謙虚で相手を立てる日本文化を、奥ゆかしく、とても美しいなと思うのですが、今日は「すみません」の使い方について書いてみたいと思います。

すみません」の意味
1. 謝罪:例「連絡が遅れて済みません」
2. 感謝:例「お見舞いをいただいて済みませんでした」
3. 依頼:例「済みませんが本を貸してください」

goo辞書より

上記のように、「すみません」には大きく3つの意味があるのですが、今日は1番目の「すみません」についてです。


大きな意味があって口にしている、というより、なんとなくの習慣で使っている方も多いかと思うのですが、正直にそのまま意味を受け取ってしまいがちな私は、言われた時、何だかとても気になるのです。だって、別に悪いことをしている訳でもないのだから。

以前、カフェでコーヒーを注文した際、注文したものと違うものが提供されたので、違いますよ、とお店の人に伝えたところ、とても丁寧に「すみません」と言ってくれ、注文したものと変えてくれて、おまけもつけてくれました。

それで一件落着かと思いきや、その後も数回「すみません」と言ってくれたのですが、感情というのは「すみません」と何度も言われると怒らなきゃいけない、と勘違いするのでしょうか。だんだん私怒っている?と思うようになってきて、態度も硬化していくのを感じました。

シェイクスピアの言葉「この世は舞台、人はみな役者だ」より、自分の役柄の数について考える』の記事にも書いたのですが、「怒る人」を演じないとならないような気持ちになってしまいます。


どうして私がこんな風に「すみません」について思うのだろう?と考えた時、ニューヨークで2年くらい暮らしていた経験からだと分かりました。

アメリカは裁判社会です。小さなことでもすぐに裁判になります。なので、「自分の否を認める=負け」という意識が高く、間違ったり、自分が悪いことをしたとしても、なかなか"I'm sorry(すみません)"と言わない傾向があります。私も現地で、簡単に"I'm sorry"って言わない方がいいよ、と言われたこともあり、自分の正当性をいつも気にしていたように思います。

こんな経験があったから、帰国してからも「すみません」が気になるようになりました。アメリカと逆で、例え大きな意味はなく、コミュニケーションの一貫だとしても、日本ではよく聞こえてくるからというのもあるかと思います。

個を立て、負けないように自分の正当性ばかりを気にするよりも、全体の調和を鑑みて、つつましやかに関係性を良いものにしようとする方が、平和的で心地よいな、と感じるのですが、使いすぎると逆効果にも思ってしまうのです。


個人的な感情でしかないのですが、例えば、電車で席を譲るとき、道を聞かれて答える時など、ちょっとした時に「すみません」と言われるよりも、「ありがとう」と言われた方が嬉しいな、と感じます。

それから、これも個人的な思いでしかないのですが、「すみません」と言う言葉は口の形も、顔の表情もなんだか暗くなってしまうのに対して、「ありがとう」は口も開くし、明るい表情になる言葉だと思うので、自分が言う立場の時には、「ありがとう」を言うように心がけるようになりました。

ちょっとした意識ですが、どう思われますか?


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